-老婆の時間は価値がないか?-

 

 学生の一日はダルで忙しい。何がダルかというと、まず第一に朝がダルだ。布団の中は暖かいし部屋はヒヤッとする。それだけで布団から出にくいのに、昨夜はなんだかんだとやっているうちにずいぶん遅くなって寝た。朝食を作るのもイヤだ。

 かくして学生のダルな一日がスタートする。

 大学に来ると今日も面白くない講義が続く。いったい先生という種族は何を考えているんだ?こんな面白くない授業を受ける身になれないのか?確かに、勉強はしなければならないが、したくはない。学生というのは複雑な心境にあるのだ。それぐらい判って欲しいよ。これじゃ、ますます落ち込んでダルになる。

 でもオレは忙しい。授業は出たくないけれど結構、数はある。レポートもあるし、なんやかんやで忙しい。携帯は鳴る、メールは来る。向こうから歩いてくる友達は誰だったっけ?気を配らなければならないしな。それに財布は寂しい。といってまた親に電話する気にはならない。また10分はお説教を食らうだろう。判っているんだ、そんなことは。でもオレにも言えない事情があるから仕方ないな・・・

 大学から下宿への帰り道に老婆がいる。ヤツはなんであんなに暇なんだ。いつも縁側でボーッとして外を見ているだけだ。オレの家にもおばあさんがいるから判るけど、老人は朝が早い。きっと早くから起きるのだから一日が長いだろうな。それであんなに暇なんだから、どうしようもないよ。ダルにならないのかな・・・。

 老婆は諦めていた。でもその諦めはあまりに長い間、続いたので老婆自身は、それが諦めなのか、自分の運命なのかはもう判らなくなっていた。毎日は何もなく過ぎ、ただ時間だけが経過していく。でも、本当は彼女にはしたいことがあった。こうしてぼんやりと外を見ていると学生さんが通る。元気な学生さんだ。なにをキョロキョロしているのだろう?若い頃はそうしたものだったのか?もう遠い昔だから思い出せない・・・

 彼女は4人の子供を産んだ。その子供たちはそれぞれ立派になって遠くにいる。時々、電話をくれるのだから自分は幸せの方だとは思うけれど、それでも本当は会いたい。子供が小さい頃、忙しかったけれど、苦しかったけれど、そこには生活があった。でも子供たちが巣立ってしまうと私の生活の実感も一緒に巣立ってしまった。私は人生がなくなるためにああして頑張ってきたのだろうか?

 彼女は学生を見ると無性に子供に会いたくなった。ああ、会いたい・・・でも、私はもう寄る年波で自分一人で動くことも、まして電車に乗って遠い子供のところなんか行けない。娘に頼んだら連れて行ってくれるとは思うけれど、娘も忙しいのだからあまり迷惑はかけたくない。でも本当は子供に会いたい・・・

 老婆は諦める。あの学生さんには未来がある。きっと日本を背負ってやってくれるだろう。それに較べて私はもうやることは終わった。子供も産んだし、育て、そして主人も他界した。私の希望を叶えることは贅沢というものだ・・・仕方がない。

 老婆はお茶をそそる。学生はそんな老婆を見て、「なんて暇なんだ!」と腹を立てながら小走りに坂を下っていった。

 将来のある人の時間は大切で、無い人の時間は無駄なのだろうか?同じ人生の時間なのに、老婆の時間はそれほど残っていないのに社会は老婆の時間に冷たい。


(手賀沼写真日記よりご提供(http://www.teganuma.ne.jp/))

 人生には3つの時間がある。自分が成長していく時代に過ごす時間、働いている年齢の時の時間、そして人生が終わりに近づいた時間だ。不幸にも途中で人生が終わりになる人は別にして、多くの人がそのような人生の時間を過ごしていく。そして「社会は働いている時間」がもっとも大切で、その次に「成長していく時間」に敬意を払う。でも「終盤の時間」には社会は価値を置かない。

 でも本当にそうだろうか?確かに日本が貧乏だったとき、一人一人の国民より国全体が大切だった。そのようなときには若い人は将来があり日本を背負うのだから価値が高く、お年寄りは価値が低いかも知れない。かつて敵国と戦い、若者が戦場で血を流したときには若い人は大切で、戦うことができない老婆は価値がないかも知れない。そして食糧が慢性的に不足していたときには姥捨て山も存在した。

 現代はどうだろうか?若者も既に戦場に出て血を流すこともなく、勉強もお国のためというより個人のためであるし、それは正しいと思う。家族も日本が貧乏だった昔とは違い、お年寄りも息子や娘の働きに期待しなくても生きていける。それなのに、なぜ若い人の時間より老婆の時間は意味がないのだろうか?

 おそらく、まだ戦争があって、国を守り、若者の血が大切なときのことがそのまま引き継がれているのだろう。国家を個人の上位に置く癖が抜けないのだろう。学生もダルで老婆もダルなのに。

 いや、学生と老人の時間だけが変わったわけではない。かつて最も貴重だった人たち・・・一家の大黒柱であり、国の宝であった優れた勤労者たちは、時に家庭では「粗大ゴミ」と言われたり、「亭主、元気で暇がよい」とされる。会社でも長年の苦労は報われず、会社は株主か、一部の経営者のものだからという理由で簡単にリストラされる。

 「働き手の軽視」は不合理で理不尽なことではないのだろう。時代はそのように進み、もう働かなくても良いといっているのだ。それなら、学生の時間も、勤労者の時間も、そして老婆の時間も等しい価値を持っているはずである。

 学生は傲慢だ。まだ若く社会のなんたるかを知らないので傲慢だ。自分の時間は大切だが、他人の時間には気が回らない。勤労者も傲慢だ。勤労者は社会をよく知っているが故に、自分たちの働きで社会が維持されているのを知っているが故に、自らの時間は価値があると思っている。

 老婆は人生を長く歩いてきた。人生というものが何かをよく知っている。人は一人で生きているのではないことも、人は自分の辛さしか判らないことも、そして時間はすべてを押し流しながら過ぎていくことを。だから、彼女は静かに座って外を見る。

 熱い心で静かに座っている。彼女の本当の心は、よそ見をしながら歩いていく学生のように飛び跳ね、忙しく人生の時を過ごしたいと言う。それは年齢も、性別も何も無関係な人という生物の欲求である。

 人の時間、1時間という時間は、その人が若者でも、老人でも、男性でも、女性でも、労務者でも、社長でも、皆同じである。忙しい人の1時間も、暇な人の1時間も、その価値は同じである。時の価値は社会が決めるのではなく、その人のものだからその人が決める。その人にとっては1時間は1時間である。

 「思いやり」「癒し」という言葉が語られる。現代の思いやりや癒しは、学生が学生に、勤労者が勤労者に、自分が自分に、思いやることであり、癒すことである。でもそんな思いやりや癒しはいらない。それは利己主義という表現が適切だ。思いやりとは、自分より老婆の方が立派であり、だから自分の1時間より老婆の1時間が大切だと感じる心である。

おわり