-自分の目で見たことでも「事実」ではない-
「人間」という動物はじつに難しい。普通の動物なら毎日、食べるものが十分にあって、敵が襲ってこなければそれだけで幸福なのですが、人間は違います。食べ物もあって敵も襲ってこないのに、不満もあるし、気分も優れない。動物から見ればなんの不自由もないのに文句を言っているのは人間が「素晴らしい脳?」を持っているからです。
でも、私たちの悩みの元である「脳」はそれほど素晴らしいのでしょうか?
私は学生に時々、次のような問題を出します。
「地球が丸いと言うことが判ったのはそれほど昔ではありません。人類が誕生してから600万年の間、人間は「大地は平ら」と考えていました。平らだから地面からずっと下まで土が詰まっていて、水平線の向こうも同じような大地が無限に続いていると思っていたのです。
それもそうで、もし地球が丸かったら海の水はこぼれてしまうでしょうし、たまたま地球の下の方に行った人も落ちるでしょう。そこで問題です。
『大地が平らと思っていた頃、太陽は夜、どこにいると考えたか?』」
問題自身は簡単ですが、少し解説を加えます。
太陽は毎朝、毎朝、東から上り、西に沈みます。だから、いったん水平線から下に沈んだ太陽が夜の内に東へ回るためには土の中を通って東に回らなければなりません。しかし、土の中を太陽が通れるとも思えません。だからといって、もし太陽が北の方を回れば、夜も北から太陽が大地を照らすのだから暗い夜はありえません。事実、夜は太陽はどこにも見あたらない???太陽は夜、どこを通って東にまわるのでしょうか?
頭の柔らかい学生も容易にこの問題の答えを探せません。大地が平らなら、太陽はその姿を見せることなく夜の内に東に回ることはできないからです。
この答えは昔の人に答えてもらいましょう。
「太陽は毎日、同じように見えるが、実は、毎朝、新しい太陽が誕生して東から上り、西に沈む。西に沈んだ太陽はその一生を終わり墓場にはいる。西の大地の下には太陽の墓場がある。」
この話は私たちの頭の体操に大変、役立ちます。日常生活の中で何気なく起こっていることを正面から考えると実に不思議なことが多く、私たちはそれを無意識のうちに「どこかで習った先入観」で解決しています。
たとえば、ガリレオが「地動説」を出すまでは、地球が丸く太陽はその周りを回っている・・・という答えが「科学的」でした。ガリレオ以後は「地球が太陽の周りを回っているのだが、自分が地球の上にいるので太陽が東から西に動くように見える」と言うややこしい説明にみんなが納得するようになったのです。
宗教裁判にかけられたガリレオは、地動説の正しさを信じ
「それでも地球は回っている!」
と呟いたとされています。
(異端審問会のガリレオ)
でも、本当でしょうか?何故かというと自分の目で、何回も見ても、目を凝らして見ても、太陽は動いています。「地球が動いているのであって、太陽は止まっているはずだ」と思い直して太陽を見てもやはり太陽は動いているように見えます。
そんなことは当たり前じゃないか。自分が地球の上に立っているから太陽が動いているように見えるだけで、本当は地球が動いている・・・と反論されますが、それでは「何回見ても、太陽が動いているのに、地動説を知っているだけで目で見たことを信じられないのか?」と思います。
私たちは「目の前にあること」を事実と思います。目の前にご飯があればそれをご飯、駅まで歩道を歩けばそこに道がある、そして大きなビルがヌスッと立っていればそれは大きなビルであり、動いてはおらず、歩いているのは私の方だから私が動いています。
それと同じように解釈すれば、太陽はどう見ても大空を動いているし、大地は揺るぎないものでまったく動きません。それなのに私たちは地球が太陽の周りを回っていることを「知っている」ので、太陽が動いているとは思えないのです。
このように「自分の目で見たのだから確かに事実」というためには、目で見ただけではなく、それを「正しく解釈する知識」が必要であるように感じられます。
よく若い学生が「先生!私はこの目で見たのだから確かですっ!」と意気込んで実験の結果を説明します。でも私は科学者として若い頃から多くの実験をしてきたので、目の前で観測し、ノートに書き留め、何回も同じことをして「これは間違いない」と思ったことでも、何かのきっかけで簡単に覆されることを経験しています。だから「自分の目で見たものでも事実でないものがある。自分が考え違いをしていると事実は違って見える。」と言うことを知っています。
網膜剥離という目の病気がある。この病気にかかり網膜がひどく目の晶子体という球を痛めると、手術して人工的な材料に入れ替えます。この手術では手術後、数週間は周囲が縞模様のように見えます。それはその人の元々の晶子体と、新しく入れた材料は屈折率が違うからです。
ところが数週間の間に少しずつ縞模様がなくなり「目の手術をする前の普通の世界」に戻ります。これは、晶子体が人工材料に混じって均一になったり、屈折率が変わるのではなく、目の網膜に結ぶ像は縞模様なのだが、像が神経を通って脳に送られ、そこで画像処理をする時に縞模様を修正するのです。
脳はこれまで見えていたように自動的に修正をすることが判ります。
私たちを取り巻いている世界は私たちが目で見たものと同じではありません。私たちはある先入観で世界を見ているので、先入観で歪んでいます。私たちが見ているものはありのままの世界ではなく、目から入った光線が一度、頭で屈折して今まで自分の頭に入っていることと調和させたり、自分の都合にあわせて、光学的な像を作ります。だから「目で見たもの」は「世界そのもの」ではありません。それは自分流に解釈したものなのです。
人が憎らしくなると憎らしく見える。惚れて通えばあばたもえくぼ・・・という諺もあります。目で見たことは事実ではないことは昔から判っていたのです。私たちが目に見える世界は「現在の知識や、現在の自分の感情、そして今までの経験を通じて見ている世界」であり、決して事実そのものではありません。
それならそれでやりようがあります。他人は自分と違う世界を見ているのだから考え方や意見が違うのは当たり前です。「あなたは、なんでそんな風に考えるのっ!」と腹を立てなくてもよくなります。見ている世界が違うのだから。相手が幼なじみで親友、それも学校も一緒なら考えることは似ているに相違ありません。
幼なじみだから小さい頃の記憶や見てきたものが似ている。だから脳が結ぶ像も似ている。親友だから一緒に野球の試合を見に行き、旅行も行った。学校も一緒だから知識も似ている。だから同じものを見たら同じに見えるので、意見も考えも同じになります。
私も人が憎くなることがあります。私も「なんであんな風に考えるのだ」と憤慨することがあります。でもその時、私は太陽を見ます。どう見ても太陽は地球の周りを回っています。でもガリレオは地球が太陽の周りを回っていると言います。もしガリレオが本当なら、私が目で見たものが間違っているのです。そして私が間違っているなら「私が正しい。あなたは間違っている」とは言えないと自戒します。
(注:物理学的には太陽が回っているのと地球が回っているのとは基本的な差はありません。より質量が大きい方を基準にするか、複数の物体の運動をもっとも簡単に記述できるところに固定軸を置くとすれば地球は動いていることになります。)
以上