-列のエチケット-
英語に”queue”という単語がある。“キュー”というような音の発音で、発音も難しければ日本ではあまり知られていない英語の単語である。日本語の意味は「列」。でも、イギリスでは有名だ。有名な理由は2つあって、1つは「日常語」であること、もう一つは「イギリス人はならぶのが好きだ」ということである。
入場券売り場でならぶ、バス停で列ぶ、トイレでならぶ・・・なにしろイギリス人はよく列ぶ。そして列にならんでいて、何が楽しいのか判らないが、どの人の顔もイライラしていない。不思議に感じてある時にイギリス人に聞いてみると、
「イギリス人は並ぶのが好きなんですよ」
とあっさり言われた。
イギリスの次はアメリカの体験。
まだ若い頃だった。私は緊張の上に緊張して、とある飛行場のチェックイン・カウンターの前に並んでいた。アメリカの国内線ではあったが、日本から来たこともあって時間には余裕がある。私の前には5人ほどの人がいたが、日本人の私でもさして気にならなかった。
やがて3番目ぐらいまで来た時のことだった。乗客とカウンターの係員の間でなにか複雑なことが起こったらしい、盛んにやり合った後、係員がどこかに行き、しばらく経って戻ってきてまた話を始める。私の前のアメリカ人は急いでいるのだろう、盛んに航空券を見たり、時計を見たりしてイライラしている。
十分な時間がある私も心配になってきた。あの人はいつ終わるのだろうか?まだ20分ほど時間はあるが、本当に終わるのだろうか・・・でも自分の前の人はもっと急いでいるようだが、それでも前の人にもカウンターの人にも文句をつける様子もない。内心はイライラしているようだが、それでも見かけは静かに待っている。
やがて長大な時間を使ってその人の問題は解決し、私たちはヒコーキに乗ることができた。
私は目的地に着き、ビジネスを終え、夕食の時に、アメリカ人にこの話をしてコメントを求めた。そうしたら、
「一番前の人が係員と話をする権利がありますから」
と、これも素っ気なく言うのである。
その後、このことがアメリカの文化、「個人の権利」に深く関係していることを知ることになる。もともと列にならぶということは先頭の人がまず目的を達成し、それが順次、後ろに人に変わっていくという仕組みである。先着順に権利を行使する方式とも言える。そして自分が先頭になったら、自分一人が目的を達成する。それが「権利」というものである。
自分が先頭になった時に権利を行使できるということは、自分の前の人が権利を行使している時に、それに異議を申し立ててはいけない。「自分だけが権利を持ち、人は権利を持たない」というのは彼らの考え方にはない。自分が権利を主張するなら、相手にも同じ権利を認めなければならない、それが不文律だ。
だから、前の客が長い時間かけて自分の権利を行使していても、後ろの人は文句を言わないのだ。
日本にも「個人の権利」という言葉が入ってきて、「権利、権利」と言うようになった。その結果、自分の権利だけを主張する人が出てきたので、批判を浴び、「権利を主張するときには、義務を果たしてから」という権利と義務が言われるようになった。
でも「権利と義務」の前に、「自分の権利と他人の権利」が最初にある。会議などでも「自分が発言しようと思ったら、他人の発言を許し、それを聞く」というのが大切だが、偉い会社の人などは自分の権利だけを発揮することもある。
ところで日本では、どうなるだろうか?ある窓口に5人並び、前の人が(あとに並んでいる5人の人にとっては)つまらないことを聞いて時間を費やしていると、後ろの人は「なにやっているんだ!」「こちらは急いでいるんだ。そんなつまらないことは後にしてくれ!」と怒りだす。時には、後ろからこづいたり、横から割り込んでくる剛の者もいる。
「日本人はしょうがない。個人の権利を主張して、他人の権利を尊重しない。」
と嘆く。だがこれは日本の文化や道徳をよく考えないで「西洋かぶれ」しているだけに過ぎない。
西洋は「個人」を基本にして社会を作る。日本は「社会」を基本として個人を作る。作り方が逆なのである。西洋は列んでいる5人を「一人づつ5人の人間」とみるが、日本では「5人で一つ」と考える。そしてその5人の「最大幸福」について、西洋では「一人一人の権利が守られることによって全体の幸福が達成される」と考え、日本では「5人を一つとして、全体の幸福をまとめて考える」とする。
そこで日本ではならんでいる5人は「順番はあるが、等しく権利を有している集団」ということになり、「5人が同時に幸福になるためには」と考える。そのためにはたとえ一番前に列んだ人でも権利の行使に当たっては「全体の幸福」を最優先して、個人の権利の行使は「我慢」しなければならない、とするのである。
だから日本は曖昧になる。曖昧な日本は嫌いだ、という人は外国に移住すれば良く、その権利は保障されている。日本に住む人はこの曖昧さの中で生活をする。でもこれが素晴らしい。国民全部が「家族」であり、見ず知らずの人が飛行場の窓口に集まっても、その5人全員の幸福を考えなければいけない。国民、総家族なのである。
日本は飛び抜けて犯罪が少ない、日本の飲み屋では「ビール、2,3本持ってきて」と従業員(おばさん)に言っても聞き返されない(西洋では、「2本ですか、3本ですか」と聞いてくるが、日本ではそのおばさんは家族なので、こちらの懐を考えて持ってくる。(時にはこちらの健康状態まで心配してくれる。)日本では18才を超えても大学生の学費を親が出す(世界的に珍しい)・・・など日本の風土は「全体の幸福」を目指した日本文化の中にある。
江戸末期に日本を訪れたリンダウは, 1958年、長崎の近郊の農家でのことを次のように記している。
「火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子が慌てて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰をかけるように勧め、母親は丁寧に挨拶をして、お茶を出してくれる。家族全員が私の周りに集まり、子供っぽい好奇心で私をジロジロ見るのだった。
……幾つかのボタンを与えると、子供達はすっかり喜ぶのだった。「大変ありがとう」と皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて可愛い頭を下げて優しくほほえむのだったが、社会の下層階級の中でそんな態度に出会うのは、全くの驚きだった。
私が遠ざかって行くと、道のはずれまで送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ「さようなら、またみょうにち」と私に叫んでいる。あの友情のこもった声が聞こえるのである」
西洋人にとってはこの長崎の農家の人たちは「他人」であり、長崎の人にとってはたとえ外人であれリンダウは「家族」なのである。家族としてリンダウに接する農家の人、それが日本人である。
超「安全」な日本、水道の水をなんの心配もなく飲める日本。このような日本は「日本人、みな家族」という思いからできた。そしてそれが世界でどれほど特異であっても、恥じることではなく、誇りに思うことだろう。人にとって大切なのはお金や仕事の成果ではなく、礼節を守り、誠実さを忘れない強い心だから。それがさらに高度な意味で他人の権利を認めている状態であろう。
(おわり)
(リンダウの旅行記の日本訳は渡辺京二さんの著書によった)