-私はオオカミ-

 社会が近代化されて人家の周りに畑や森が少なくなると、人間は自然との関係が薄くなってくる。でもそれはごく最近のことで少し前までは人間は自然の中で暮らしていた。人間と自然との接触は時に人間が猛獣に襲われたり、逆に動物が人間によって大量に殺されたりするもので、「自然との共存」という言葉の響きより現実はかなり厳しいものである。
 
 長い間、人間にとっては「自然」は共存できるものではなく、襲ってくるものだった。
 
 自然との接触の中でときどき起こる事件の一つが「オオカミ少年」である。寓話で有名なオオカミ少年は「・・・が来る」「・・・が来る」とウソをつくので誰も少年のことを心配しないようになった時に本当にオオカミがきて、その少年が襲われるという話だ。

 赤ずきんちゃんでもオオカミ少年でも、オオカミというものはものすごくどう猛ですぐ人間を襲うように思われているが、さすがイヌと同類で人情味?があつく、夫婦愛、家族愛も強い。オオカミの夫婦は死別しない限り離縁はない。そして連れ合いを求められなかった子どもや一人はぐれた親戚の面倒も見る。

 そんな心優しいオオカミだから、人間の子どもが森の中に迷い込み、オオカミの巣の近くに行くと、オオカミは人間の子どもを捕らえて食べるどころか、自分の子どもと同じように可愛がり、乳をやって育てる。でも、このようなオオカミの風習を人間の判断基準で美化するのも問題かも知れない。オオカミはオオカミとしての種族の為にこのような習慣を持っているのだから。

 ともかく、オオカミに育てられた子どもも「オオカミ少年」「オオカミ少女」という。

 おそらくは一生をオオカミと過ごしたオオカミ少年もいるだろうが、体が大きくなると目立つし、行動範囲も広がるので人間に保護されることも多い。写真は11才の時に保護されたオオカミ少女である。

 この少女は保護されたときは当然、裸だったし、オオカミのように牙をむき人間を睨んだ。本人はすっかり自分がオオカミと信じているのだから、それも理解できる。そしてこの少女に食べ物を与えると、写真のようにライオンと同じように手を使わずに食べた。人間のように食べることを教えても拒否した。

 普通に考えると「自分の体を見れば自分が人間かオオカミか判りそうなものだ」と思うけれど、彼女には自分の体がオオカミに見えるのだ。いくら形が人間でも、心で「自分はオオカミだ」と思っていると本当にそう見える。そしてこの少女はついに人間社会になじむこともなく、19才でこの世を去った。

 このオオカミ少女の話は人間の認識の危うさという点で示唆に富んでいる。

 人間から見るとどうしてもその少女は人間だ。だから少女の目にもそのように写っていると思う。でも少女は自分がオオカミと信じている。信じると目の前にあるものも違って見える。私たちは眼を使って見てその像は網膜に移るが、それは人間の「体」の働きである。

そして人間の体の働きは遺伝子できまる。つまり現代流に言えばDNAだが・・・DNAの情報量がいくら多いと言っても人間の脳はそれ以上であり、脳の情報量はDNAの1000倍もある。だから、体と脳が情報戦をしたら体には勝ち目がない。少女の眼には自分の体が「人間」として見えているが、脳の情報で処理される内に「オオカミ」に変わってしまう。

 つまり人間は本能も働くが、その本能自体も強く脳の力に左右されている。このシリーズの「其の一 -バラはなぜ美しいか?」でも書いたように、動物の基本的な本能の一つである男性の性欲ですら、本能的には性欲がなく、頭脳による錯覚であることがほぼ明らかになっている。私たちの脳は強い幻想を描き、それが目の前の事実と違っても、幻想を信じる力を持っている。
 
 だからいくら性欲が幻想と判っても、性欲を制御することはできない。脳は幻想の上に、もっと強い幻想を作り出す。それがある時には破壊的な力を発揮したり、ありもしない事に悩んで落ち込んだりする。

 でも、この脳の幻想の力が「前向き」に働くことがある。「オレは世界一なんだ!」「オレは絶対、幸運な男だ!」と唱えるだけでかなりのことができるのはそれを示している。反対に「私は運が悪い人だ・・・」「私は性質が悪く生まれてしまった・・・」とくよくよしているとそのようになったりする。それは事実より幻想が大きな力を持っていることを示している。

 私は科学者で長い間、科学の実験をしてきた。同じ条件で同じように実験すれば同じ結果が得られそうだが、そうではない体験を何回もした。実験する人が「できる」と思うと良いデータがでて、「できない」と思っていると悪いデータがでる。その同じ人があるきっかけで「できる」と思うとそれからデータが良くなるから不思議である。

 科学の実験でもそんな具合だから、人間が主人公であるこの社会ではもっとそうだろう。「できる」と思えばできるというのもあながち間違いではないかも知れない。

 このように私たちの脳がもつ「幻想を作り出す力」は、「自分が人間の体をしているのにオオカミと思う」ぐらいに強いのであり、性欲が無くてもあるように感じてしまうのである。前向きに考えたり、後ろ向きになったり、ハッスルしたり(現代風ではノリノリ)、落ち込んだりするのも脳の力でできる。

そう考えると「落ち込む」というのは、実は本人が落ち込みたくて落ち込んでいるのであり、心の中になにか辛いことがあり、それが自分に暗示をかけていると思う。そうでない時には一種の脳の神経の伝達に使う物質のが不足している場合だろう。その時にはゆっくりと休み、栄養をとり、再出発すればなんとかなる。

 私がここで言いたいのは、悩んでいる人の多くが自分で自分の幻想を作り出していることが多いと感じるからである。現代の社会は幻想に充ち満ちているので、自分の心(頭)も幻想に覆われる。そしてもともと幸福な状態にあるのに不幸な生活をしている人がいるので、とても残念なのだ。

 赤信号は続かない。今日は運が悪い、次の信号も赤だとイライラしていると本当に赤が続く。でも「そのうち、青信号になるさ」と思っていると信号で待たされること自体に気づかず、周囲のにぎやかな様子に気を取られるようになる。そうすると自分の胸にあったイヤなものがなくなっていることに気づく。脳の情報は強いのだから、それを信じて辛いけれど明るく行こう。そうするといつの間にか楽しくなる。

(おわり)