― 文化庁の民主主義 ―
文化庁が、管理が悪く高松塚古墳の壁画をカビや作業ミスなどで損傷させてしまい、それを隠そうと藻掻いた様子が毎日のようにマスコミに報道されています。
1972年に奈良県立橿原考古学研究所の網干善教先生など関西大学と龍谷大学の方々による発掘調査の時に、この素晴らしい文化財が発見されたのです。あまりに素晴らしいので、発見後、直ちに古墳は特別史跡に指定され、極彩色の壁画は国宝に指定されました。
特に有名な壁画は「白虎」で古墳の西壁を飾っており、東西南北を守る動物の神の一つとして私たちの目を驚かせたものです。全体的な印象としては中国の文化の影響を強く受けていますが、それでも日本の古代の芸術や文化として「国の宝」であることは間違いありません。
ところがこの「国の宝の文化財」をこともあろうに「文化庁」がミスを繰り返して、カビは生やすし、作業中に壁画は壊す、さらに「ダメになったことを国民が知ると大変だ」と隠蔽工作をしたというのですから、これはマスコミが報道し、みんなで文化庁を叱らなければならないのは当然でしょう。
すでに多くの人が文化庁を叱っています。うっかりして失敗したのは「業務上過失」でしょうが、「故意に隠した」というのはこの古墳のもつ重要性から言えば、ホリエモン事件より大きな粉飾事件であることは間違いありません。
でも、ここでは違う視点からこの事件を見てみることにします。第一に「民主主義とはなにか?」ということ、第二には「著作権の範囲」についてです。
残念ながら、私も含めて多くの日本人が「白人コンプレックス」ですから、白人が「民主主義が良い」と言えば、そうかなと思います。そこで現代の日本では「民主主義」と言えば泣く子も黙るという感じですが、一体、民主主義とはどういうものでしょうか?
普通にはギリシャの民主主義がそのお手本になっているようで、ギリシャ政治史の先生にお聞きしてみると、
「民が主ですから、まずは情報が包み隠されず民に届くことです。民が判断するのですから情報は必要です。従って、現代の日本は民主主義ではありません。」
と、いとも簡単に言われます。
確かに考えてみますと、「民主」というのですから「民が主人」であり、民が主人なら、まず情報は民に行くようなシステムになっていて、それが実行されるのが当然です。でも、多くの「重要な情報」が国民に知らされないのが日常的ですから、日本は民主主義ではないと言われても反論のしようがありません。
文化庁による高松塚の粉飾の問題も、煎じ詰めて言えば文化庁が日本は民主主義ではないとしているところにあるでしょう。重要な情報は文化庁長官とか本庁の課長は知っていても、民に教える必要はない、文化に関して民は「よらしむべき、知らしむべからず」という存在だからです。
(ひれ伏す庶民)
この問題が情報公開、著作権などの民主主義の根幹にかかるのは、文化庁が「文化的な情報管理」を司る役所だからです。私も著作をする立場から、文化庁が出される著作権などの基準を読み、裁判記録に目を通して、これは著作権がある、これは無いと判断して文章や図などを使っています。その基準となるお役所が文化的情報管理を誤ったのですから、どうも感心しません。
著作権に関しては、権利そのものの概念が二重人格性を持つヨーロッパから来たものなので、礼儀と正直を旨とする日本文化にはなじまないところがあります。CDを売って商売とする音楽の世界のように「文化とお金」が直接的にリンクしている領域は別にして、また人の書いたものでその人を誹謗するというようなものも別にすると、文化を文化として楽しむのに権利が伴うというのは日本の文化には歴史的にもありません。
その一つの例をこの高松塚の壁画に見ることが出来ます。この壁画は「国宝」ですから「民主主義」に従えば、日本国民すべてのものであり、それを自由に見る権利は国民が等しく持っており、文化庁長官だけが見る権利があるのではありません。
でも、国民全部に公開したら壁画が傷むので代表者や学者に限定するのは構わないのですが、そこで撮られた写真などには著作権を付けないということを文化庁は宣言しなければならないと思います。
特許権にしても著作権にしても、人間の創造物が保護されるのは無限の権利ではなく、「そのものが社会に貢献するので社会から対価を得る権利がある」と言うことに過ぎないのです。高松塚古墳の壁画のようにものすごく大きな価値のある「国民全部の財産」の場合、どんなに素晴らしい写真を撮ろうと、その写真に著作権がつくのは日本式著作権ではありません。
もともと、壁画は国民のものであり、その写真は壁画を撮影したから価値のあるものです。だから、写真を撮った人の権利は大きく制限されるはずです・・・実は私は高松塚の壁画の著作権というのがどのようになるのか判らないのです。
なぜ、私のような著作の専門家がわからないのか・・・それは著作権そのものについても情報が公開されず、議論が不十分だからです。かくして、高松塚の壁画はほとんどネットでも見ることができず、それを使うことすら躊躇う(ためらう)のです。
判らないことはお上にお伺いを立てる、そうするとそっと教えてくれる・・・という情報の制限を、この高松塚の問題を契機にして文化庁が取り払ってくれれば、文化庁から日本の民主主義が復活するかも知れません。私は個別の問題より、この事件をきっかけとして「民主主義に於ける情報とはなにか?文化的情報の所有者は誰か?」という根幹にかかる議論に発展して欲しいと思います。
おわり