― お医者さん、看護婦さん、そして先生 ―

 2006年3月25日午前11時。分家射水市長は記者団の前で市民病院で起きた「人工呼吸器外しによる患者の死亡」について弁明の会見を行っていた。市民病院の外科部長が7回にわたり人工呼吸器を外して患者さんが死亡したことを市民病院長が発表したことについてのコメントを求められたからである。

 特別な延命治療を行わなければ直ちに死亡する重篤な患者さんに対して人工的な呼吸をはじめとした治療を行うべきかについては世界的にもまだ結論が出ていない。医療の進歩は幼児が赤痢で死に、青年が結核で短い人生を終わることを止めたが、進歩は良いことばかりではない。

 昔なら畳の上で静かに息を引き取った病人は、その権利を失い病院で全身に管を付けた姿で最後の時を迎える。多くの場合、すでに本人は意識が無いことが多いが、それを見守る肉親にとっては辛い時間である。

 人間は自力で生きることが出来なくなった時、死ぬ権利があるのだろうか?外科部長が「犯罪者か?」ということで警察が捜査に入っているということは死ぬ権利が無いことを示している。この難しい問題が個人の医師の判断に委ねられているという現状はあまりに異常で、医師会や日本哲学会などの専門機関の怠慢と言えるだろう。

 でも、この重たい問題に少し違った角度から焦点を当ててみたいと思う。

 1854年3月、イギリスはクリミア戦争に参戦した。フランスとトルコとの同盟の下の参戦だったが、イギリスとしては歴史的にも珍しい大規模な海外派兵であった。

 イギリスは紳士の国である。軍隊も大英帝国の権威を保ち、ジェントルマンとして正々堂々、正義のもとで戦うように思うが、現実はそうでもない。人間のすることだから表面は潔く、清らかでも現実は汚い。


 戦闘は意外に苦戦を強いられ、イギリスから派遣される多くの将兵が傷ついて前線の病院に運び込まれた。鉄砲の弾で負傷し、刀剣で突き刺された重症患者は病院で呻きながらその一生を終わっていった。

 イギリス本国では前線の病院で死ぬ将兵があまりに多いのに驚き、当時のハーバード戦時大臣が病院での看護活動の必要性を感じてナイチンゲールに従軍を依頼する。かの有名なナイチンゲールの登場である。

 彼女は1820年、イギリスの貴族の少し下の階級に生まれ、33歳でロンドンの病院に「看護をする人」として勤めだした。今から180年も前、日本では江戸時代の末期である。まだ「看護婦」という職業もなく病人の世話をする人は下男下女と同じような取り扱いだった。

 そんな中、ナイチンゲールは戦時大臣の命令を受けてシスター24名、看護婦14名を引き連れてクリミアの戦時病院に向かった。スクタリというところにあるその病院は酷い状態で、そこを管理している軍人や役人は完全な縦割り行政の中、不衛生な病院の中で死んでいく兵士を助けようとはしなかった。

 病院の責任者ホール軍医長官はナイチンゲール一行の従軍を拒否、すべての医療行為を禁止した。そこでナイチンゲールは誰の任務にもなっていなかった便所掃除を始め、強引に病院内に入っていったのである。

 1855年になって戦時省と陸軍省が合併すると陸軍省は衛生委員会をつくり、現地へ調査団を出した。そうしてみるとナイチンゲールが戦時大臣に出していた報告書通り、病院内は酷い衛生状態だったのである。陸軍は直ちに改善を始めた。

 その結果、一時は病院内で死亡する兵士が、入院患者の実に40%にもなっていたのに、翌月には14%、そしてさらに1月経つと5%にまで低下した。つまり傷兵になってこの病院に担ぎ込まれた兵士の大半が、キズによって死亡するのではなく病院内の伝染病で死んでいたのである。現代で言うMRSA院内感染である。

 それでもナイチンゲールに対する嫌がらせは続いていた。ある時、ナイチンゲールの辞令にはクリミア半島での活動が含まれていないということでホール軍医長官が活動を制限した。遠く本国から女王の新しい辞令が届きナイチンゲールが晴れて自由に看護の活動を出来るようになったのは戦争の終わる寸前だったのである。

 ナイチンゲールという人は面白い人で、本国で「白衣の天使」として国民的英雄になったのを嫌い、“スミス”という偽名で帰国、現地からの報告を分析して統計的解析をした。その資料は後に学問的にも高く評価されるようになる。

ナイチンゲール基金:45000ポンド、聖トーマス病院内にナイチンゲール看護学校の建設、イギリス内に看護婦養成学校が誕生・・・まさに「近代看護制度の母」であり、女性として初めて有功勲章(Merit勲章)を授かったが、最後まで有名な人としての取り扱いを断っている。

 ナイチンゲールの人生は私の尊敬するキャベンデイッシュと似ている。人間は名誉やお金のために費やした時間は空虚である。研究で大きな成果を上げたキャベンディッシュは論文を書くことをせず、ナイチンゲールは看護すること自体が人生だった。

 また、ナイチンゲールの活躍の陰には、当時、ロンドンタイムスの特派員だったウイリアム・ハワード・ラッセがクリミア戦争の前線で負傷兵が悲惨な状況であることを伝えたことにある。マスコミの記者も視聴率を考えるのは邪道なのだろう。

 ナイチンゲールの人生は「医療」のなんたるかを教えてくれる。そのことが射水市民病院、終末医療、そして医療事故とどのような関係にあるか、次回以降でさらに深く考えてみたいと思う。

おわり