― 美しい心・つけ込む心 (2) ―

 

 先回、日本人は「してはいけないことはしない」という不文律があり、「美しい心」をもって行動している人に対して「つけ込む心」を持ってはいけないことを書いた。NHKの受信料を日本人が支払うのは、難しい法律論は別に説明することにして、日本人の美しい心から来ている。

 でも、視聴者もNHKも、ともに「美しい心」だろうか?それともどちらかが「つけ込む心」を持っているだろうか?2,3の例で調べてみたいと思う。

 まず、視聴者がNHKの受信料を支払わなければならない理由は、放送法第32条、
「NHKの放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」
と規定されていることによる。

 この法律はおかしい、憲法違反である、あるいは契約の大原則に反する・・という意見もあって、それも納得するところがあるが、ともかく法律で決まっているのだ。日本国は選挙で国会議員を選び、その人たちが国民に代わって法律を作っている。そして法律の万人としての裁判所もあるのだから、仮に放送法が悪法でも私たちはそれを守らなければならないだろう。「悪法も法」だから、まずは守ろう。

 でも、さらにその前に考えるべきことがある。それはラジオやテレビの「台数と受信料」の関係である。

 放送法は昭和25年に出来た。戦争が昭和20年に終わり、戦後の混乱期を脱しつつあった頃のことである。昭和26年にシャープが国産の第一号テレビを出し、続いて28年にはテレビ放送が本格的に始まった。ちょうど、その頃、放送法が出来たのである。

 法律も時の子であるから、NHKの受信料も「一家に一台、ラジオやテレビを持っている人は公共放送としてのNHKの受信料を支払ってください」という意味があり、受信料を払うのは当然、収入のあるオヤジであり、子供は払うはずも無かった。

 そして、それを多くの日本人も納得した。家庭の中では「NHKの受信料が高い」とか、「なんで民放はお金がいらないのにNHKだけは取られるのか?」などという不満を口にしても、「そうはいっても、払わなければならなければ払おう」と日本人は思ったのである。

 内閣府の消費動向調査によると下の図にあるように1955年、つまり放送法ができてから5年後の昭和30年には白黒テレビの普及率はゼロに近かったが、それから10年後の昭和40年(1965年)には普及率は90%を超えるまでになっている。それとともにラジオの重要性が薄れ1968年にはラジオの受信料が廃止されテレビ一本になった。

 NHKがなぜ受信料を必要とするかというと番組を作り、それを電波に乗せて各家庭に届けなければならないからである。そのためには記者、アナウンサー、カメラマン、スタッフ、経営者が必要であるし、スタジオ、放送設備、電波設備もいる。お金がかかるからお金を集めるということである。

 でも、「放送」という商品は一般的な商品と大きく違う。たとえばセーターを売るときにも、毛糸を紡ぐ人、編む人、色を付ける人、売る人が必要で、運搬するトラックや事務所、デパートも必要である。つまりセーターを買うのにお金がいるというのは「セーターを作るのにお金がいる」からである。

 セーターを一着買って7,800円だったとする。それを10着買うと78,000円支払わなければならない。10着も買うのだから少しは割引してくれるかも知れないが基本的には10倍、払わないと売ってくれない。なぜ10倍払うかというと作ったり売ったりするのに10倍かかるからである。商売だからと言って「かからないお金を貰うのは不当である」。特に「美しい心」の日本人には納得できない商売のやり方である。

 NHKの場合、どうだろうか?テレビ放送が始まってしばらくは施設を作ったり、番組を充実させたりするのにそれだけ余計なお金がかかっただろう。だから、「テレビを買った人から受信料を取る」という放送法第32条は合理的な受信料制度だったのだろう。

 でも、テレビを見る人が日本の全世帯の50%にもなると、番組を制作して電波を出す施設はNHKの体制もできあがっていた。それから数年後に日本のほぼ全世帯がテレビを持つようになる。つまり「受信料を取る人が倍になる」ことになった。当然、NHKの収入も倍増する。つまりテレビの普及率が50%でも100%でもNHKの労力は変わらない。

 実に不思議なものである。テレビを持っている世帯が50%の時も、100%の時もNHKの労力は同じなのである。電波はNHKの電波を発する塔から出ればその先、1台しか受信しなくても1億台、受信してもNHKの番組制作費も電気代も変わらない。受信する電気代は「テレビ消費電力」という形で各家庭が払う。

 ところがNHKはそうしなかった。NHKの経費は同じなのに一台あたりの受信料は据え置いたので、収入だけは倍になった。こんなことは公共放送として適切だろうか?もちろん、今の経営陣とは無関係であるが、現在の受信料不払い運動の基礎はここにあるから、現在の経営陣も無関心ではおられない。

 少し複雑になるが、もう少し正確に表現しよう。NHKの受信料というのは本来、テレビの保有台数には関係がなく、番組制作とその配信の料金を「受信者数で割る」ことが前提である。放送法はそのように決めているのだ。

 現実的には、テレビの保有台数が少ないときにはテレビの台数が増えるに従って受信料収入が増え、初期の赤字を消すことが大切だ。でも、その後は保有台数が増える毎に一台当たりの視聴率を下げなければならない。テレビの保有台数が増えても受信料を変えないというのは「不法な受信料」ではないが「不当な受信料」だったのである。

 これは「NHKも大事だから、あまり細かいことを言わずに受信料は払おう」という日本人の「美しい心」にNHKの経営陣が「つけ込む心」を持っていたことを意味している。今でも遅くないから、NHKはまず「なぜ、テレビの普及率が高くなっても受信料を返還しなかったか」についての理由説明がいる。

 現在のNHK受信料不払い運動の根幹がここにある。NHKは国民の「素直な心」を利用して、テレビの受信台数が増えても自分たちの労力が変わらないことを言わずに、そのまま受信料を受け取っていた。それはいけない。日本文化ではしてはいけないことである。

 町の職人でもそんなことはしない。必要ともしていない代金を支払おうとすると「いや、旦那さん、どうせ捨てようとした端布から作ったのですから、お代金は格安で結構です」と言うだろう。それが「まともな商売」というものである。

 でもNHKにも言い分はあるだろう。
「確かに、テレビの普及率が50%の時と100%の時と、同じ番組を作れば同じ経費しかかかりませんが、皆さんからの受信料収入が多くなったので、それだけ番組を充実させました。」

 この言い訳を少し論理的に考えてみよう。
 テレビの普及率が50%の時、受信料は「正しく」決められたとする。その時、テレビを持っている世帯数が3000万世帯で、受信料が一年で1万円とすると、3000億円がNHKの収入になる。

 その収入をNHKが正しく使ったとする。「正しく」というのは、良い番組を制作し、番組を編成し、設備を整え、国民の共感を得て、将来にも備える・・・ということである。事実NHKはそうした。そうしたからみんなが支持して受信料が増えたと解釈すべきだろう。

 そして受信機が倍になってもNHKの労力は変わらない。そうしたらまずは受信料を半分にしなければならない。一度、半分にしたら値上げをするのは困難だ、などと民間会社のように考えなくてもよい。NHKは公共だから国民が払うだけの受信料で運営すれば良いからである。

 もともとこの世の活動というのは「お客さんの支持」が基本である。支持がなければ実施できないのだから、みんなが「NHKはいらない」と言えば、「残念ですが、そうですか」といって放送を止めれば良いだけのことで、それは仕方がない。しかし、私はNHKが面白くてためになるから受信料を払う。そういう人の浄財の範囲で放送すれば良いのであり、下手な使命感は間違った結果になる。

 受信する世帯数が増えたら、それなりに番組も良いものにするのが良いだろう。だから収入は多い方が良い。でも、NHKが公共放送で受信料を契約でいただいている限り、まずは受信料を半分にし、その後、「番組を良くしたいので2割値上げしたい」と受信者に求めればよいのである。

 日本人が「美しい心」で不払いによる罰則もないNHKの受信料を払おうというのだから、NHKも「つけ込む心」を持って欲しくなかった。

つづく