― ロンドンの水道 ―

 

 パリから南方に60キロ、車で小一時間ほど行くと、もうそこは田園地帯と言ってもよい風景が広がっている。フランスは農業国で、緩やかな丘陵地帯が続き、日本とはまた違う自然の趣で美しい。

 フォンテンブローの近くに、かつてロマン派の画家がその居を構えたバルビゾンと呼ばれる地域がある。バルビゾン派と呼ばれる画家達がここで活動し、今では「画家の道」と呼ばれて観光客も多い。そこの細い道を行くとそれまで学校で名前だけは聞いたことのある巨匠の生活を実感する。

 「バルビゾンの7星」は、日本でもおなじみのコロー、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ・ド・ラ・ペーニャ、デュプレ、ドービニーである。

 バルビゾンの町から少し外にでると、畑が拡がり潅木の林が点在するフランス農村の風景になる。その道をしばらく行くと、ミレーが「晩鐘」を描いた地点に到達した。そこに立って右手のほうを見ると遠くに教会の尖塔が見える。「晩鐘」に描かれた農夫とその妻以外の風景が私の目に入った。

 私はすっかり感激した。確か高等学校の頃だったのではないだろうか、私がこの絵を見たのは。それ以来、私はこの絵から、近代科学というものは人間が生きる意味の一つを奪ったのだと思うようになった。

 一日を終え、その日を無事に過ごすことができたことを神に感謝し、そして明日をお願いする。人間が生きるということはそういうことだろう。食べたり寝たりお金を儲けたりすることは人間のするべき事ではない。でも私たちは科学と社会の発展によって、夕暮れに神に感謝する自由を奪われ、就寝前にベッドで懺悔することもできなくなった。

 バルビゾンの近くにフォンテーヌブローがある。有名な城のあるところで、この城のあまりの豪華さに旅行者はため息をつき、ここに来た幸運に感謝する。でも私はこの城では「ナポレオンの階段」が好きである。

 1812年5月9日、ナポレオンはロシアに向かって進軍を開始した。その数60万。この進軍が彼の命取りになり、翌年ライプチヒの戦いで連合軍に敗れたナポレオンは1814年4月6日に退位、服毒自殺に失敗して、4月20日、このフォンテーヌブローの階段を降り、近衛兵に最後の別れを告げる。

 ナポレオンとその近衛兵の話に脱線すると限りがないので、それは止める。ナポレオンの階段を迂回して城の正面に出ようとすると外壁には見事な彫刻が施されている。でもそれはナポレオンの没落と共にその繁栄の時代を終わったフランスを象徴しているように酸性雨で朽ち果てていた。

 そうなのである。歴史家トインビーを持ち出すまでもなく、民族はその活動時代が限定されている。いや、民族といっても良いし地域と言っても良いだろう。

 愛知県岡崎市に行くとどこも徳川家康である。彼は400年前に活躍した。鹿児島県鹿児島市に行くとどこでも西郷隆盛である。彼は150年前であるが、その後、鹿児島には彼ほどの人物は現れない。だから今でも西郷隆盛である。

 フランスもそうである。中世からルイ王朝、フランス革命、ナポレオンに至る時代、フランスは世界の頂点だった。その時代に築いた遺構を現在のフランス人の活動力では保つことはできない。ナポレオンという人物の歴史像はトルストイが「戦争と平和」で描いたように歴史の子であって、一人の個性ではない。

 それが現代のフランス全体を覆っている。家康が岡崎を覆い、西郷どんが鹿児島の町にすっくと立っておられるように。そして、その悲劇はまたロンドンも同じである。

 先日、ロンドンの渇水の報道があった。それをテレビで見ながら私はバルビゾンが頭をよぎり、フォンテーヌブロー、ナポレオン・・・に思いを馳せた。ロンドンは100年ぶりの渇水だという。そしてその原因はヴィクトリア女王の時代に構築した水道配管があちこちで破れ、供給される水の3分の1を途中で失うことが原因とアナウンサーは説明していた。

 1837年から1901年までの長きにわたったヴィクトリア女王の時代、大英帝国は繁栄し、ブリテン島は大ブリテンだった。七つの海を支配する精神力と活動力をもったイギリス人はロンドンの水道を完璧に仕上げた。それは子孫の財産になり、そして重荷になった。

 親が偉いと子供は辛い。子供は親を超えなければ世間はその子を認めないから、1000年に一人という親を持った子供は必ず不幸になる。自分が優れている、自分が偉いということは近い人を圧迫し、不幸にし、そしてそれに気がつかないところで悲劇が生まれる。

 1960年代のアメリカ。強大な力を背景に国内、隅々まで高速道路を敷く。今のアメリカにはそれを保全する力はない。2000年の日本。東京に巨大なビルが乱立する。高速エレベーターが瞬時に40階に連れて行ってくれるが、私たちの子孫は石油が無くなり電気が無くなり、階段を上っていくだろう。

 フランスの城もロンドンの水道も偉い祖先に悲鳴を上げている。もうその栄光は戻ってこないが、栄光は保たなければならないし、財産であり、プライドである。でも、人間というのは栄光も財産もプライドもその人の人生を作ってくれない。そんなものは余計である。

 人生とは自分が自分の背丈で生きることであり、それは親が偉くない境遇の人だけに与えられる。偉くなってはいけない。偉くなると子供が不幸になる。

終わり