― 小説は死んでいる ―

 

 文豪トルストイはかつてこう言った。
「学問は、(偉そうな顔をしているが)人生のなんたるかを教えないので意味がない」
確かにその通りである。

 学問はある時には「真実」を明らかにし、ある時には「新しい物」を作り出す。それは部分的であり還元的である。自然のある部分、あるいは人間のある部分がわかったからといって人生自体を照らし出すことはできない。それは文学の役割だとトルストイは言う。

 碩学ヘルムホルツは、トルストイが学問の批判をする30年ほど前にこう言った。
「1000年前の小説は価値があるが、私が書いたものは30年経ったら紙くずだ」
19世紀の自然科学を率いた一人である彼にして学問というものが30年も保たないことを述懐しているのである。

 学問は新しいことを追求し、新しいことは日々、更新されるので学問の進歩が盛んな時ほど、自分が歩んだ道は古くなるのも早い。哀しい学問の性(さが)である。

 ところが最近、異変が起こってきた。世界的にも日本的にも近代文学の大家は次第に姿を消している。芥川龍之介、島崎藤村、夏目漱石、川端康成から太宰治に至るまで名だたるビッグネームが並ぶ。そして現在でも優れた作家がいて、芥川賞もあるのだが、今ひとつ勢いがない。

 有名な作家が新しく作品を発表したからといって急いで本屋に行くのは、本当に小説が好きな人だけになった。庶民は小説から離れ、古典も大衆小説も読まない、というか話題に上らない。今でも小説の話をするというと「我が輩は猫である」や「坊っちゃん」が出てくる。せいぜい「雪国」だ。

 最近の小説は、病気、性など非日常的描写を好む。特に女性の作家の小説は、自らの肉体の経験を踏まえた詳細な描写が続く。確かに日常的なことはあまり面白くはなく、非日常的な中に人生が見えるのかも知れない。トルストイの時代に生きていたわけではないが、「坊っちゃん」も「雪国」もそれほど異常な世界を描いている訳ではない。

 泉鏡花ぐらいになるとその妖麗な文章で描かれる風景はこの世のものとは思えないが、案外、その頃の花柳界にはあったのかも知れない話のようにも思える。

 近頃の小説が廃れたのは、書き手の力が落ちてきただけでは無いようにも思える。かつて、人間の生活は長く「生き物」としてはまともなものだった。それは古くは、縄文時代から“1972年”まで続いた。なぜ“1972年か?”という謎はこのホームページにも書いてあるが、その年に日本人は「生物では無くなった年」だったからである。(詳しくは人生の鱗・科学者の目 其の四十九 ―1972年生まれ―を参照)

 人間は動物の一種だから、額に汗して食料を求め、灼熱の鉄塊を叩いて道具を作る。そうして人間は600万年を生きてきた。でも1972年から34年間。日本人は額に汗をしない生活を送るようになった。それは、もう食料も物も作る必要がなく、生きるのに努力する意味もなく、ただ無意味な「稼ぎ」というものを追求している存在になったからだ。

 トルストイが言うように小説とは「人生のなんたるかを考えるもの」である。でも人生自体が無くなったので、文学は僅かに人間に残った生物的なもの、「病気と性」を描く。時に「環境」などもテーマになるようになった。

 私は必要があって最近、有吉佐和子の「複合汚染」を読んだ。農薬の被害を訴え、農薬を使うことによって人類は破滅に陥るだろうという小説風のドキュメンタリーだ。文学好きの私でも彼女の文章に驚愕した。科学的には明確にウソであることが羅列されているのである。

 彼女があまりにも科学の知識が無かったか、それとも世間を騒がしてさらに名声を上げようとしたか、それは私にはわからない。でも彼女の空想が科学の衣を着て、多くの人に甚大な被害を与えた。

 文学のテーマがない日が続いているほど無風なはずの日本なのに、それでも、日本人は苦しんでいる。株を売って「儲けた」と聞くと「うらやましい」と思う。でも「儲ける」ということは「お金を手にすること」であって、「幸福を手にした」ことではない。お金を手にすることは不幸になることであり、幸福とは無縁である。

 すでに私たちは異常な世界にいて、「不幸になる」というのを「良かった」と感じる世界にいる。それは空しい人生でもある。しかし、その人生を書き込むだけの作家はいない。相変わらず額に汗する人の人生を描き、それに行き詰まって「病気と性」に創作意欲の対象を求めているだけだろう。

 小説は私たちの生活のバロメーターのようなもので、小説が死んでいるのは私たちが死んでいるからであり、もし小説が生き返るとするとその時には私たちが生物に戻り、息を吹き返す時である。学問もまた、現在では人間を廃人に追い込むためにのみその活動を進めている。

 私は日本人が架空の人生から五感の生活へと転換するのは簡単だと思っている。それは
「素朴になること、額に汗をかくこと、体を動かすこと」
である。

 人の言うことをそのまま信じる、自分がしたいことをする、美味しいからと言って過度に贅沢なものを食べない、満腹しない、自分の仕事は自分でする、歩けるところは歩く、生活ができる程度以上にはお金をもらわない・・・みんな書くことも恥ずかしいぐらい当然のことである。

 長寿世界一、世界一のお金持ちの日本人が、ほとんど世界一自殺率が高い。そんな社会から当たり前の社会に戻れば小説は病気と性から離れて、本当に人生を考えさせてくれるだろう。

おわり