― 一夫多妻の論理 ―
「進化論」を表したダーウィンがビーグル号に乗船してイギリスを出航したのは1831年12月29日だった。それから5年、ダーウィンはこの小さな船で世界を巡り動物の生態を事細かに観察した。
日本では古来から、学問を「外国から来る知識を書物を読んで吸収する」と捉える。それは、古く奈良時代に中国から律令制度や仏教などの文化が大量に持ち込まれ、その後も四書五経、朱子学など日本の教養人はまず中国古典の勉強から始めたことに端を発している。外来文化の同化には優れた能力を持っている日本は仏教や禅などの分野では師である中国のレベルを超えた。
明治になるとヨーロッパ、アメリカの学問の門戸が開かれ、1000年前に中国の文化を急速に吸収したように、再びその能力を発揮し、太平洋戦争の敗戦にも拘わらずアジアではほぼ唯一の先進国に成長した。
だから学問は書物を読むものであり、鉛筆で数式を解くものであるという強い信仰がある。でも、学問がもし新しいことを切り拓くものなら書物でも鉛筆でもなく、役に立つのは「足」なのである。
有名なガラパゴス諸島でのイグアナの観察などを行ったダーウィンは、1836年10月2日にファルマス港に帰港し、航海で知った膨大な自然からのメッセージを整理し、抽象化し、そして「進化論」を著したのだった。現在でもダーウィンの進化論は色褪せてはいない。その書き出しから前編に渡るダーウィンの自然に対する観察眼、誠実さは見事なものである。
ダーウィンの研究と「進化論」で人類は初めて自分たちの祖先を知ることができた。だからこの発見は単なる「科学的発見」ではなく、哲学、文学、美術など私たちが自然をどのように見、人間社会や人間をどう認識するかという面に影響を及ぼすのは当然だった。
その意味でダーウィンは私たちの恩人である。冷静に自分たちを見つめることができるようになった人類は次第にそれまでの迷信や妄想から解放され、「あの女は魔女だから火あぶりだ!」などという野蛮な行為は過去のものになったのである。
みんなは「進化論」に感謝すべきだった。でも、出版されたイギリスの反応は全く逆で、社会を挙げてダーウィンを攻撃した。
「我々の祖先が「サル」だと!とんでもない。人間は神に似せて創造された特別な存在だ」
ダーウィン派と反ダーウィン派に分かれて激しい論争が始まる。でも、ダーウィンは地味な学究派の人だったから論争や公の場所での演説などは苦手だった。いくら非難されても出てこない。そうするとますます民衆は激昂し、非難の声が高まる。
そんな情勢にいたたまれなくなったダーウィンの友達、トマス・ヘンリー・ハックスリーが登場する。彼は自らを「ダーウィンの番犬」と名乗り反ダーウィン派のキリスト教の牧師と激しく争う。
有名な論争は1860年6月30日のオックスフォード博物館で行われた「オックスフォード論争」である。反ダーウィン派にはイギリス国教会のサミュエル・ウィルバーフォース主教、ダーウィン派はハックスリーが出場した。
でも、利害関係に敏感な人たちの論拠は真実から遠く離れている。知識はなくても頑張る。ダーウィンに比べれば万分の一ではあるが、私も偶然、社会から猛烈に反撃を受ける経験をした。「リサイクルは環境を汚す」という内容の本を出したときだった。
社会からの反論は私の主張と行き違いになる。
武田「リサイクルをするとゴミが増える」
社会「リサイクルは良いことなのに何を言うかっ!」
という訳である。議論がかみ合っていない。
リサイクルが始まって9年。まだ「リサイクルをするとゴミが減る」という理論を聞いたことがない。相変わらず「リサイクルをしたいのだから、変なことを言うな」という攻撃ばかりである。でも、その心境はわかる。人はなんとなく相手の言うことが本当らしいと感じると、余計に激しく反撃をしたくなるものだ。
鏡を見れば自分の顔がサルに似ていることは確かである。でも、鏡は見なければならない。その度にイヤな思いをする・・・ダーウィンの奴め!と憎く思ったのもわかる。
ダーウィンは著書の中でこんな事を言っている。
・・・みんなが「自分の先祖がサルだ」と考えたくないことは仕方ないけれど、
「そう考えるのが嫌なことでも勇気を持って考えれば真実が判る」
真実を知ることは簡単な様に思える。目の前に起こっていることをそのまま目で見、肌で感じれば良い。別に難しい学問がいるわけでもなく、特別な装置が必要でもない。ありのまま、見れば良いのである。
でも人間は生物だから、「自分が生き残ること、自分だけが得すること」で精一杯であるし、時としてそれもままならない。だから事実がどうであれ、できる限り自分の都合の良いように事実を解釈して生きるのが一番、良いだろう。そこでダーウィンの言うように「真実」をわかることですら「勇気」がいることになる。
人間がいかに自分に都合が良いように解釈するかという見本のようなものに「一夫多妻」がある。世の男性に「一夫多妻はどうですか?」と聞くと、ほとんどの男性は「うらやましい」と答える。妻1人でも大変なのにとも思わないでもないが、それが人情というものだろう。そして婦人団体は眉をひそめる。
この「一夫多妻」に対する男性の反応こそ、「人間は事実をそのまま理解するのではなく、必ず自分本位に解釈する」ことの典型的な例である。
一夫多妻というのは1人の男性が複数の女性を妻に持つということである。そして男と女は結婚年齢に達した時にはほぼ同数である。ということは、例えば一夫多妻が男性1人に妻10人とすると、男性10人の内、たった1人が妻を持ち、子供を持てるのであって、残りの9人はあぶれる。
だから男性に一夫多妻を聞けば、9人は「イヤだ」と言い、1人だけが「うらやましい」と言うはずである。それをほとんどの男性がうらやましいというのは自分が10人の内の1人になると錯覚しているからである。
一夫多妻制度は男性には厳しく、女性にはまだましな制度である。男性は10人のうち1人しか子孫を残せないのに対して、女性はとにかく全員が子孫を残せるのだから。
自分に都合の良いことが真実であり、実際には不利であっても錯覚の限度一杯に錯覚しようとする、そんな可愛い存在が人間なのだ。そしてその性質を利用してズルをしてやろう、儲けたい、自分が当選したい・・・などと考える不埒な奴もいるから困る。
おわり