― 正しさの変遷 ―

 1845年と言えば、その4年前に水野忠邦が天保の改革を始めた頃で、8年後にはペリーが黒船の艦隊を率いて浦賀沖に来たという激しい時代の幕開け寸前という頃です。

 遙か地球の裏側のイギリスでは、すでに産業革命が終わり、爆発的に工業が発展し始めた頃に当たります。後に共産主義の理論を作った一人であるエンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」という著作の中でイギリスの都市に住む人たちを次のように描写しています。


(Friedrich Engels, 1820-1895)

 「貧民には湿っぽい住宅が、即ち床から水があがってくる地下室が、天井から雨水が漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。貧民は粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化の悪い食料が与えられる。貧民は野獣のように追い立てられ、休息もやすらかな人生の楽しみも与えられない。貧民は性的享楽と飲酒の他には、いっさいの楽しみを奪われ、そのかわり毎日あらゆる精神力と体力とが完全に疲労してしまうまで酷使される。」

 こんな人生が許されるはずはない、何かが間違っているのだ、という情熱が25歳のエンゲルスの著作となり、その後の彼の生涯を決めたようです。実業でも力をふるったエンゲルスですが、なんと言ってもマルクスの著作を整理し、共産主義の思想を確立するのに大きな功績があったことは間違いないところでしょう。

 マルクス、エンゲルスがこの世を去ってから20年ほどたって、ロシアで革命が起こり、共産主義国家がこの世に登場します。そして丁度、今から100年前、ヨーロッパの知識人は「資本主義の次には共産主義の時代が来るのだろう」と考えるようになったのです。

 日本でも同じでした。太平洋戦争の前には共産主義は非合法であり、法律的に罰を受け、時に投獄されたりしましたが、それでも「未来は共産主義、または社会主義」と思われていました。戦後も、日本の多くの知識人は「今は資本主義だが、内部矛盾が拡大して、間もなく共産主義になる」と確信していたのです。

 でも、1989年にベルリンの壁が崩壊し、最も大きな共産主義の国だったソビエト連邦が崩壊して、共産主義が後退し始めました。今や、東ヨーロッパは共産主義から資本主義へ「逆行」しましたし、世界で共産主義を守っている国は、中国、北朝鮮、ベトナムなどアジアの一部に見られる政治体制のようになったのです。

 「正しいこと」というのは実に難しいものです。かつて「共産主義が正しい。これこそ未来の政治体制だ」と信じていた多くの人たちは今、どういう心境でしょうか?いや、実のところまだ、共産主義が間違っていたと決まっているわけでもありません。むしろソビエト連邦や東ヨーロッパの国が共産主義としては特殊だったのかも知れないのです。

 19世紀の後半、ドイツにヘルムホルツと言う学者がいました。私はヘルムホルツのことをよく書くのですが、それは彼が大学を引退する時の演説を「ドイツ語―日本語対訳本」で読んだからです。それまで熱力学の大家としてヘルムホルツを知っていた私は、彼がその引退の演説のなかで、
「科学の著作ほどつまらない物はない。30年もたったら間違いだらけの本として価値を失う」
と言っていたのを知りました。

 あれ程の学者が・・・というのが私の感想でした。

 政治体制ばかりではなく、真理を追究するはずの科学ですら、「正しい」と思ったことは30年後には否定され、あるいは「あれは間違いだった」と非難されるのです。ヘルムホルツも常に新しいことを目指して研究を重ねてきました。その中で、自分自身でもかつて自分が正しいと思ったことが間違っていたことに臍を噛むことがあったからと思います。

 私も研究者として常に最先端を目指して研究をしてきました。ウラン濃縮という研究を始めた時には「どんなに頑張ってもこの方法で濃縮ウランを作るのには80年かかる。それは厳然たる理論である」という報告が1972年にアメリカから出ていました。その報告者は当時、原子力の大御所だったBenedictのものでした。

 でもその後の研究で、2段法という少し違う方法ではありましたが、2ヶ月で濃縮ウランを採ることができました。私は「厳然たる理論」に反したことがなされたことに対して「そんなものか」と思ったことを思い出します。

 また反対に、私が「これは正しい」と思い、確信したことでも後に否定されることがありました。どう考えても当時は正しいと思ったのに、それが違うのです。全く人の頭はいい加減なものだと愕然とします。

 科学は目の前の簡単な事実を確認するに過ぎませんし、実験などで裏打ちをされ、もちろん「創造的」なものでもありません。科学は、「研究者が取り組む遙か前から自然界にあるもの」を単に発見するに過ぎないのです。人間は自然界にないものを作り出すことはできず、必ず自然の法則に従うのですが、それすら間違いがあるのです。

 私はよく「藤村 操」の話を書きます。「人生不可解」という言葉を残して日光の華厳の滝に身を投げた旧制第一高等学校の学生です。彼は私より人生に対する洞察力があったかも知れませんが、もし私が彼に会うことがあったら、「科学のような簡単なものでも、私は間違いばかりしていて真実はなかなかわからない。まして人生だからとても手に負えないのではないか?」と言ったと思います。

 自然があまりにも複雑で人知を超えるからこそ科学者は失業しない、人生がいつまでも不可解であるからこそ小説家は誕生する、ということではないかと思います。

 少し卑近な話になって恐縮ですが、私は最近、「環境」と言われる分野を研究していますし、「リサイクルしてはいけない」とか「省エネルギーは増エネルギーになる」とか、あるいは「ダイオキシンの毒性は低い」などと言っています。でも、このように本当に小さなことについてはある程度、わかるような気もしますが、「環境」という大きなことはさっぱりわからないのです。

 たとえば、自分自身が作った問いですが、次の3つの問いの答えをまだ発見できていません。もう設問を作ってから5年近くになるのに・・・

設問1
「毎月50万円の給料をもらう人がある時に環境に目覚めて節約を始めたとします。そうしたら毎月5万円が余りました。これをどうしたら良いでしょう。」

設問2
「若者が一所懸命努力して立派な人間になり産業界で活躍すると、その人は度々ヒコーキに乗ってエネルギーを使い、贅沢な暮らしをするだろうが、それは正しいか?」

設問3
「あと100年も経つと石油も銅の資源も無くなる。だから今から節約をしなければならないと言うが、将来の世代のことを考えて節約するほど私たちは将来をわかっているのか?」

 君がわからないのは当たり前じゃないか・・・とお叱りになるお釈迦様やイエス・キリストの声が聞こえるようですが、「正しいこと」とは難しいものです。テレビや新聞を見るとつい「こんなことがあるのか!けしからん!」と怒りがこみ上げてきますが、私が正しいと思っていることはかなり薄っぺらい感じもします。

 私は大学にいる関係で、私の身の回りには「正しいこととは何か?」を考えて悩み、先鋭になり、喧嘩をしている人を見かけます。それは大変、結構なことですが、同時に私たちには「小さい正しいこと」はわかりますが、「大きい正しいこと」はわからないと思うのです。

おわり