― 姉歯事件を少し深く考えてみる ―

 姉歯元一級建築士によるマンションの偽装問題は、多方面に渡って社会的な影響を与えている。「罪を犯したのに何で平気な顔をしているのだ!」「ヒューザーの社長はけしからん!」といった意見にはじまり、「どうせ、建築なんて言うものはいい加減な物だ」「昔から、政治家と建築会社が組んでやっているんじゃないか」・・・・などなど様々である。

 でも、ここでは少し冷静になって、この姉歯事件について少し深く考えてみたい。この解説は、内容が少し複雑なので、時間のある時にじっくりと取り組んで欲しい。

 議論の焦点は、
「昔に比べて、こんなに複雑になった社会の信用や安全を誰が守るのか?」
ということである。これまで、このような事件が起こった時、日本の社会は「後ろ向き」になる。つまり「誰が犯人だ、何が悪いのだ。補償は誰がするのだ」ということに夢中になり、それが片づくと、事件を忘れる。

 そうすると、事件を起こした原因は取り除かれていないので、また起こる。その典型的な例が「水俣病」である。「チッソが悪い、補償はどうした」というのも大切だが、二度と水俣病を起こさないようにするのが犠牲者に報いるもっとも大切なことであるが、それに触れようとすると社会から総反撃にあう。

 だから、マスコミも政府も原因にはどうしても触れない。触れると「なんで、そんなノンビリしたことを言っているのだ!はやく犯人を捜して吊し上げろ!」とお叱りを受ける。そのため、真の原因は曖昧になり、事件は再発する。

 水俣病の真の原因を追及していれば、カネミ油症事件、ミドリ十字事件などかなりの事件を未然に防ぐことができ、犠牲者も少なくできたと思うと残念である。二度とその轍は踏みたくない。

 そこで、まず、姉歯元一級建築士の事件を「誰が安全を保証するのか?」という観点から見てみたい。なぜなら、この事件が抱える多くのことの内、もっとも大切なのは「人の命が危険にさらされる」ということだから。

 社会が原始的な時には、日常的に起こる多くのことは「目で見たらわかる」という範囲で行われる。たとえば住宅というものを取り上げてみる。原始的な生活、それが人間の生活としては一番、まともな生活なのだが、近くの森で木を切ってきてそれを近所の人と一緒に組み立てる。


(近所の人と作る本当の家)

 骨組みは伝統的な方法で組み立てられ、みんながそれを見ることができる。これなら「一級建築士」も「偽装」も何もあり得ない。そして、江戸時代なら近くの大工さんが建ててくれた。ご近所の人と一緒に建てていた時に比べると、多少「専門的」になったけれども、大工さんが柱を組み、少しずつできあがっていくのを見ることができる。「足が地に着いている」のである。

 でも、ヒューザーが販売するマンションとなると、そんなものとは全く違う。ある時に、家に配達される宣伝で「素晴らしく見晴らしの良いマンションが、お買い得!」という文字と、新築のマンションの写真を見るだけである。

 現地に行っても、モデルルームは別のところにあり、模型が展示されているだけである。台所がどうなっているのか、居間はどんな感じなのかはわかるが、骨組みはもちろん「耐震性」などわかるはずもない。そのため、「建築確認」があり、「中間検査」や「確認検査」があるから大丈夫ということで購入する。だから「足は地に着いていない」。

 「足が地に着いていない」社会ではどうやって「安心」を求めることが出来るのだろう?その方法は3つある。

1) 普通のことは「信用」が守る。
2) 少し、難しいことは「国家」が守る。
3) 大変、難しいことは「専門家」が責任を取る。
という分担になっている。

1) と2)はだいたい想像がつくと思うので、解説は省略することとして、3)の例を示したい。

 「大変、難しいことであるが、それでいて必要なもの」では、社会は「専門家」を決めて、その専門家にすべてを任せる。その専門家の一つが「医師」である。社会は医療を医師に任せる。医師がどういう診断をするか、どういう治療をするか、薬は何にするかを決めても、それは誰もチェックしない。

 ただ、国家は「国家試験」を行い、医師としての資格を与えるだけである。医師の資格を与えたら、その人がすることをチェックしない。なぜだろうか?

 医師は病気の治療については社会の誰よりもよく知っている。だからだれもチェックできる人がいないというのがその簡単な理由である。

 医師は、大学の医学部で勉強し、国家試験に合格し、インターンなどで実地訓練をして、一人前になる。その医師より優れた能力の人を、ほぼ同じ数だけ国家が揃えて、医師のすることをチェックするだけの余裕はない。そしてそんなことをする人もいない。だから、医師が治療をしたものは原則としてチェックはないのである。

 つまり、社会は「医師という専門家に最終判断を委ねる」ということであり、だから「医の倫理」が求められるのである。

 一級建築士というのは医師に「似ている」。実は「似ている」というところが今度の問題の真の原因であり、「医師と同じ」であれば問題は起こらなかったかも知れない。ではなぜ、一級建築士は医師と比較して「似ているが同じではない」のか?

 一級建築士は大学の建築学科などで建築を勉強し、経験を積んで、国家試験を受け、資格を得る。そして普通は医師のように独立して「建築事務所」を開き、個人住宅やビルを設計して社会に貢献する。ここまでは医師と同じである。

 違いは形式にもある。大学の医学部は履修が6年であり、建築士は4年である。医師は大学を出ていないと絶対にダメだが、建築士は大学を出ていなくてもなることができる。

 「大学など出なくても良いじゃないか。それだけの力があれば」「大学を出た人だけに資格を与えるというのは特権的考え方だ」という意見がある。それも一理あるが、大学で教えることは「学力」だけではない。大学は教育基本法に基づいて運営されており、教育基本法第一条は教育の目的として次のように規定している。

 つまり大学の建築学科や建築工学科では、建築の学問や技術を教えるのは副次的であり、主力は人格の完成、社会の形成者、真理や正義を愛する心などを養う教育をする。教授は常に学生に対して「立派な人間になれ、社会に役立つ人になれ」と学生に呼びかける。20歳前後の多感な時代に教授が呼びかける言葉は学生の心を打つ。

 大学の医学部ではさらに6年間の間、医師としての心構えを繰り返し教育される。それは「ご遺体」と呼ばれる解剖実習として、時には現実に死体を解剖することによって、自分たちが何を対象にしているのかを実感することができる。注射をするなどの「実務」としての大学教育が大切だが、それより精神的な成長こそが大学教育の役割なのである。

 大学を卒業しなくても、精神的に成長することができる。だから大学を出なくても良いのだが、その代わり、精神的な成長のためにどのような訓練をするのか、どのような判定をしてその人が精神的にも立派なのかを決める必要がある。しかし、それはまだ出来ていない。

 医師が6年、建築士が4年というのも「専門家」としては問題である。技術系の専門家としては「博士」というのがあるが、これは大学を出てさらに5年の教育が必要だから大学と併せて9年になる。それらに比べると建築士はいかにも教育期間が少ない。

 これは諸外国との比較でも問題になっていることである。多くの先進国では日本の一級建築士に当たる教育には5年を求めている。日本でも5年の教育に変えたいという動きはあるが、何しろ日本の建築業界はお金優先、利権優先なので、なかなか高邁な議論が通りにくい。だから4年のままになっているのが現状である。

 さらに一級建築士には「専門家」として大きな欠陥がある。それは「専門家のギルド」が存在しないことである。専門家は国家などによってその権威を与えられると、専門家のグループを自ら作る。医師の医師会、弁護士の弁護士会、教授の教授会のようなものである。

 専門家は必ずギルドに所属し、ギルドから除名されるということは専門家としての仕事が出来ないことを意味する。だから「全員参加」である。大学は教授を解任することはできない。教授を解任できるのは教授自らがメンバーである教授会のみである。それは教授という職業が専門的であり、何が適切かを判断するのは仲間の教授会だけだからである。

 従って、専門家のギルドの組織率は100%でなければならない。ところが一級建築士の組織率は20%前後と言われている。ここでも「“一級建築士会”なんか意味が無い。俺は一匹狼でやる。」という人もいるが、それなら、一級建築士は専門家ではなくなり、その権威は失墜する。なぜだろうか?

 専門家は自らの「会」をもち、そこが専門家の業務を監視し、専門家の仕事を社会に対して責任を持つ。医師の不祥事は医師会が責任を持ち、不届きな弁護士は弁護士会が除名する。それで社会は「いったん、国家試験を合格した人を継続的に監視するシステムを持つ」ことになる。

 国家試験を通過した後、継続的な監視機構を持たない「一級建築士」は専門家としては欠陥資格である。だから、今回のようなことが起こる。

 そこで、今後の考え方だが、
1) 一級建築士は「専門家」ではないと認めて、国家がその仕事を監視する。その場合、国家にも一級建築士に相当する力のある人をその数だけ揃える必要がある。
2) 一級建築士を「専門家」として認め、大学に於ける履修年限を5年にし、一級建築士会への組織率を100%にする。
という二つの方向がある。

 著者は2)が良いと思う。日本人は「お上」を信用しているから、マスコミや一般の人の意見を聞くと1)が良いと言っているが、専門的な仕事は誤魔化そうと思えば誤魔化せる。だから、できるだけ専門家で守る方が良い。

 また「国家と専門家」を比較すると、国家がウソも悪いこともしないとは限らない。なぜなら、国家と言っても個人の集まりであり、監視する人自体はそれほど高度な教育を受けるのは難しいからでもある。

 姉歯元一級建築士の偽装事件は、高度に発達した日本社会の安全をどのように守るかについての基本的な議論が不足していることを示している。でもこの事件を、苦しんだ人を出すだけで済まさず、今後に役立たせることが知恵というものだろう。

おわり