― 学問の内在的矛盾 ―

 ドイツという国は奇妙な国である。ゲーテ、カント、ヘーゲル、ベートーベン、ブラームス、ワグナー・・・という名前を並べただけでも大変な国であることが判るが、第一次世界大戦の後、連合国にいじめられたことが原因となってヒトラーを熱狂的に支持したりする。理性と狂気が同居している感じがする。

 ドイツの偉人の中でもヘーゲルという哲学者がひときわ光っていると言っても異論がある人は少ないだろう。そのヘーゲルの有名な言葉に次のものがある。
「ミネルバの梟(ふくろう)は夕暮れに飛翔する」
“Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug.”


(ヘーゲルと言えばこの肖像画が使われる)

 日本語にしてもドイツ語にしても、なかなか格調が高く、しかも判りにくい言葉である。ありがたい格言はあまりに平易で日常生活の言葉で語られるとその価値が薄れるものである。言葉が難しいと、ミネルバとはギリシャ神話に出てくる知恵の神様であるとか、梟はその横に控えている侍従であるとか、いろいろ解説ができて、ありがたみが増す。

 ところでこの言葉は、
「皆さん、知恵というと何かありがたくて、将来を見通すような、時に役立ちそうなものに見えますが、実は「知恵」というのは物事がすべて終わった後、それを整理する時に役立つものなのです。だから学問の力で将来を予測しようとしてもダメです」
と言うことである。

 「知」というのはややずるい面を持っていて、「物知り顔」ではあるのだが、それは「過去のことをよく知っている」ということで、将来はさっぱり判らないのである。「夕暮れ」というのはその日に起こることはすべて終わった状態を意味している。

 ヘーゲルは1770年生まれだが、それから約100年後に誕生したマックス・ウェーバーという社会学者もドイツ人である。彼も「職業としての学問」など社会学・哲学の上で大きな業績をあげた人として有名だが、学問というものについて難しい表現で真実をついた言葉を残している。

「学は自ら時代遅れになることを望む」


(マックス・ウェーバー)

 ヘーゲルのものよりこちらの言い回しの方がさらに難解かも知れない。学問というのは新しいことを考えついたり、発見したりするものとしよう。すでに判っていることをただ伝えるならそれは「覚えて伝える」だけだから「碩学」「博学」と言えるかも知れないが、学問の本当の仕事ではない。

 ところが学問はこれまでの確固たる原理や定理、概念など先人の築いた巨大な土台の上に立っている。だから、その土台に敬意を表し、それを守らなければならない。「中途半端な偉い学者」が権威を振りかざし、新しい学問を抑圧するのはよく見られる現象である。それは学問のある一面を示している。

 でも学問が新しいことを望むのなら、これまでの学問を捨てなければならない。つまり学者の仕事はこれまでの学問を必死になって勉強するのだが、同時に、その学問体系を崩すことが目的となる。つまり一見して自己矛盾しているのである。

 工学という学問領域は、自然の原理を応用して人類の福利に貢献するものであるが、これまでの工学の成果を十分に踏まえなければならないと同時にそれを否定し、新しい技術を作り上げていく。だから、このマックス・ウェーバーの言葉がピッタリとしている学問なのである。

 私は若い研究者や学生を相手に研究をしている時に、ときどき超えられない論理的障壁を感じることができる。それは「勉強中の人は研究ができるか?」という問いである。

 新しいことを手がけようとしてその分野の勉強をする。それもサボりの学生なら良いが、一所懸命勉強する学生がいたとする。その学生が勉強をしながら、実験をする。勉強の目的は「現在の知識を系統的に学ぶこと」であり、実験の目的は「現在の知識が間違っているところを捜す」ことである。だから相矛盾する。

 そこで学生は実験の結果、現在の学問と違う結果が出ると、学生は「実験が間違っている」と考える。それは当然のことで、学生が前の晩、必死で勉強して理解したことは学生にとって「新しい事実」である。その翌日に実験で違う結果が得られても、それを素直に納得できないのはわかる。

 学生と研究する時にさらに困難な局面になるのは実験の計画段階である。学生にある実験をするように言うと、その実験に関する知識や周辺の学問を勉強する。これはまじめな学生に限るが、そういう学生もいる。その時、学生が「先生、昨日やるように言われた実験ですが、本を読んでみると違うことが書いてあります」と言うとやっかいである。

 学生にとって本に書いてあることは絶対である。そうしないと試験で何を書いたら良いか判らないから本に書いてあることは正しいと仮定せざるを得ない。ところがその本が20年前に書かれたとすると、それから学問が進歩して様変わりになっていることも多い。身の回りで言えば、20年前は携帯電話など全く考えられなかった。時代はそれほどに進歩する。

 実用的な分野でなくても、進歩の早い学問分野は携帯電話のように進歩することもある。そうすると学生は何を勉強し、何を信じ、さらに何を否定する実験をすれば良いのか皆目、判らなくなる。そして学生や若手の研究者の中には迷路に紛れ込んでしまう人もいる。

 いくら優秀な学生でも、19世紀の物理化学者のヘルムホルツが次の様に言っているのは知らない。
「文学者はうらやましい。優れた作品であれば1000年経っても少しもその価値が下がらないが、私の分野は30年も経てば間違いだらけの本になってしまう。」


(ヘルムホルツ。3人ともドイツ人でみんな厳つい顔をしている)

 もっとも、サボりの学生は何も考えず、何も勉強しないで実験をするので成功率が高い。学問とは難しいものである。

おわり