― 知・芸・術 ―
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
夏目漱石にそう書かれると頷いてしまう。実に人間社会を的確に表現した文章である。さすが文豪、夏目漱石である。
人間というものを「3つの要素」に分けるのが良く行われる。その代表的なものが「知・情・体」である。頭が知、心が情、そして体である。夏目漱石が「知」と「情」を取り上げ、体の代わりに「意地」を挙げているのは「草枕」の筋が関係している。
「運動、体」が鍛えられると「情」は篤くなるが「知」は少なくなる。その意味では知は情・体とは少し質の違うものかも知れない。ヨーロッパのスポーツがもっぱら「体」だけに注目しているのに対して日本のスポーツ、つまり武道は「体」を鍛えると共に、それが「知と情」の完成にも寄与することを求めている。
「知・情・体」とは別に、学問や芸術に関係する人間の要素について、いろいろな提案がされている。その一つ、「才、学、技」を紹介したい。これは著者の師が私に教えてくれたものである。
人間の能力には、「才、学、技」の3つがある。「才」はその人が持って生まれた才能であり、それは磨き上げること、つまり「研磨」によって光る。「玉、磨かざれば光なし」というのがこれである。英語ではこれをEducation(教育)というが、日本では次に説明する「伝達」を「教育」と言っている。
「学」は人類が蓄積した個別の知識やその体系を学ぶことであり、英語でCultivationというと少しこれも妙な気がする。Cultivationという語感は「育てる」という感じがする。いずれにしても日本の学校はほとんど「才」を「研磨」するより「学」を「伝達」するのが主になっている。
そして最後が「技」であり、英語でTrainingとなる。また少しケチを付けるようになってしまうが、Trainingというのは訓練という「具体的な行動」であり、日本語の技に相当する英語の単語はTechnologyではないかと思うが、これも英国人にじっくり聞いてみなければわからない。
ともかく、人間の能力には、「才、学、技」があり、「才と技」があれば「あの人は絵画の才能があり、技術も美術大学で訓練を受けたから」という訳で「芸」の道に進むことになり、「学と技」があれば、学校で学問を習い、技術を磨いて「技術者」になるという訳である。
「技術者」は「才」はあまり要らないらしい。地道に勉強し、親方について技を習えば、おおよそは職業として成立する。優れた刀工とか技術の神様のような人はいるが、普通の鍛冶屋さん、会社の技術者はおおむね「才」は問題にされない。
日本人は実務的だから、ことのほか「学と技」が重要視され、その結果「芸と術」が盛んになり、「ものづくり」王国となる。テレビやビデオの家電製品、パソコンや携帯電話などの電子機器、自動車や航空機などの輸送機器など、すべては欧米で発明され、それが日本に入るとたちまち「学と技」でものにして発明元を打ち負かせてしまう。
その代わり、「才と学」で裏打ちされた「知」はあまり得意ではない。日本の知の総本山である日本学術会議や総合科学技術会議などから「知」の作品が出るのは珍しく、そこでも哲学は不在で、知を感じさせることは少ない。超一流の土建屋だった田中角栄の日本列島改造論と同じように、総合科学技術会議も目的を明示せずに「技術立国」という話になっているほどである。
日本に「知」がないのは「才」の教育をしていないことにもよる。人間は生まれながらにかなりの才能を持っている。それが小学校に入る時にはまだ開花していない。その状態から「学」の伝達だけを行うので、せっかくの才が花開かずに、知識だけを詰め込む。いわゆる詰め込み教育である。
だから将来の日本が欧米から「知性」として独立するためには「才」の教育が必要だと叫ばれる。でも手法がわからない。なんと言っても才の教育を受けていない人が先生だからかなり大変である。でも日本も少し前に戻れば大丈夫だ。
江戸時代より前の日本は「芸」を重視する。それは「才」と「技」で成り立っている。芸を磨くには技だけを学ぶわけではない。まず弟子入りすると廊下を拭き、炊事洗濯をしながら徐々に精神的成長を待つ。そして心の中から才が芽生えてきた頃を見計らって少しずつ技を学ぶ。
それが芸というものである。
ところで「芸」に「学」がついたらどうだろうか?「芸」だけなら「学」がないから「芸人」ということになるが、「学」があれば「大家」になる。人間として完成するのだ。同じく、技術者も学と技だけでは単なる技術者であり、それに才がついて初めて「技師」「研究者」になることができる。
最後に著者の経験を一つ。
1990年代初頭、それまでグルメ、ゴルフとバブル景気に沸いていた日本はバブル崩壊と共に突如、環境、心、優しさの社会を望むようになった。この変身の早さが日本民族の良いところではあるが、その中で「リサイクル」が叫ばれた。
著者はその最中に「リサイクルしてはいけない」という本を出したところ、意外な反響があった。それは単に本がベストセラーの何番目になったということだけではない。「リサイクルをすることになっているのに、なぜ、リサイクルをしてよいかなどと疑問を持つのですか?」と聞かれてビックリしたものである。
日本では行動の意味を問うてはいけない。やると決まったらそれが意味があろうと無かろうと「やる」のだ。「知」を働かせてはいけないというのが日本の流儀である。だから「リサイクルをするべきかどうか」など考える方がおかしいというのである。確かに、良く理解できる。「術」には「知」は要らないのだから、考えることは禁物なのだ。
そんなリサイクル騒動の最中、私を支持してくれたのは、美術家、文学者などだった。つまり「芸」は私を支持してくれたのだ。その時はそれが何を意味するのか判らなかったが、私の師からこの三角形を見せていただき、得心した。「芸」と私は互いに「才」を共有していたのかも知れない。
おわり