― 正方向のポテンシャル ―

 「油団」というものはこのホームページでも何回も紹介している。実に素晴らしい表具で、これこそ「持続性社会形成の最優秀賞」をあげなければならない。いつも紹介する時には同じ写真を使っているので、ここでは恐縮だが、著者が涼んでいるところを一枚。

 8月5日の午後2時だった。ようやく真昼の太陽が少し傾きかけた時だったが、暑い夏の盛りである。私はこの厳粛な座敷、上品な表を見せる油団に敬意を表して背広を着込んでいる。写真は少し暗いが、それは私の希望である。衣服が正しく、薄暗い方が涼しい。

 夏の涼しさは「気温」ではない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」とまでは言わないが、暑さも気のものである。大きな地震に揺られている最中に「暑い」という人はいない。それに私は油団の座敷の中で油団でできた座布団を敷いている。私の体の熱は油団を通じて部屋の中に拡散していく。

 私の体温はほぼ37℃。それに対してその日の気温は33℃だった。体温の方が周囲の気温より高いのになぜ、「暑い」のだろうか?34℃のお風呂には冷たくて入れない。それなのに34℃の夏の昼下がりは暑い。湿度が高いからなどと言ってはいけない。お風呂の湿度は100%である。

 なぜ、お風呂は34℃では冷たくて入れないのに、気温の34℃は暑くてたまらないのだろうか?物理や化学をよく学んだ人はこの不思議なことに「それはこうだ」と言われるだろうが、普通には不思議なことである。

 人間が生き、活動するには体に蓄積されている脂肪などを燃やしてそれをエネルギーにしなければならない。燃やされるのは体に蓄積した脂肪で、燃やすのは肺からの呼吸で体内に取り込まれた酸素である。そして脂肪が燃えると二酸化炭素と水になり、残りがエネルギーになる。

 人間の体内では燃やしたエネルギーを熱としてそのまま使うのではなく、一度、APTという化合物にそのエネルギーをためてから使うのだが、最終的には熱になる。そうすると熱が体にたまってくる。もし体の熱を外に捨てずに燃やし続けると、体温は徐々に高くなって熱中症になる。

 つまり、人間が生きていくためには自分が活動する時に出た熱を体から取り去らなければならない。体から外へ取り去ることのできる熱は、

 である。は取り去ることのできる熱、 は「伝熱係数」という熱の伝わり方、 は体の表面積、そして括弧の中は体温と周囲の温度差である。

 つまり取り去ることの出来る熱は、伝熱係数が大きく、体の表面積が大きく、体温と周囲の温度の差が大きい方がよい。風呂の温度と気温で感じる差は、伝熱係数が約100倍も違うからだ。つまり、体温が37℃の時、周囲の気温が33℃であれば温度差は4℃である。お風呂に入ってこれと同じような感じになるとすると36.96℃となる。ほとんど体温と同じ温度の風呂に入ることになる。

 それでもお風呂の方が冷たい感じがするが、風呂の中では人間は裸であること、顔や頭が外に出ているのでそこから熱が逃げることなどから、体温より少し風呂の温度が高くないと「暑い」という感じがしない。

 やや面倒な話になってきたが、簡単に言うと、
「人間は体の中で燃やす熱を、素早く取り去らなければ苦しくなる。」
ということであり、夏の気温は体温より低いが、伝熱速度が低いので暑い。

 そこで一計を案じたのが油団である。油団は「伝熱量を増やして体から熱を取り去る」という仕組みを持っているので、気温が高くても体温より低ければヒヤッとする。昔の人は偉い。伝熱の式など知らなくても原理は理解し、それを応用する仕組みまで考案する。まったく頭が下がる。

 それに対して、現代のエアコンは実に馬鹿げたものである。部屋の中にある熱を「ヒートポンプ」で外にくみ出す。エアコンでは必ず「室外機」というのがあって、そこから熱風が吹き出してくるが、あれは室内の熱を外にくみ出しているのである。

 くみ出すにはエネルギーがいる。そこで石油で電気を起こし、その電気を遠くから運び、それで部屋の熱を外にくみ出す。部屋の中だけは冷えるが、電気を起こす時に作り出す電気のエネルギーの2倍の熱を出す。さらに送電し変電する時にまた熱が出る。電気を作り、送電変電するロスや設備、電気料金を集めるために使うエネルギーも全部含めると、エアコンに使う電気の10倍の熱を出す。そして最後に、エアコンに使った電気も熱になる。実に頭の悪い方法だ。

 環境運動をしている人で自分の部屋にエアコンを使っている人はいないだろう。それこそ他人を犠牲にして自分だけが環境に良いところに住もうとする行為だからである。そんな行為をしている人が、他人に「分別が大切」などと説得しても始まらない。

 私が油団を推薦するのは、このようなことである。それは「温度というポテンシャルを、そのまま素直に使う方法」であり、「正方向のポテンシャルの利用」と言うことができる。もし、現代科学でこのことができれば、環境問題は無くなる。

 ところで、油団の敷いてある牧野さん(油団の職人さん)の家の座敷の襖(ふすま)の前に「衝立(ついたて)」がおいてある。この衝立は夏に部屋を閉め切らず、と言って外から部屋の中が見えないために開いた襖の前に置く。写真は夏のもので、鮎が清流に遊ぶ図が描かれている。

 外より中が暗いので、半透明のこの衝立があれば中は見えないが、目の粗い布で出来ているので風は通る。現代風に言えばレースのカーテンと言ったところだろうか。でも伝統的なものは「ものの機能」に加えて「人の心」を大切にする。夏は「清流の鮎」、秋は「渓流の紅葉」である。そして冬と春は使わない。襖の絵を愛でる。

 現代の生活に「芸術性」が無くなり、機能一辺倒になったのには二つの理由が考えられる。一つは西洋流の効率主義である。人間には心はない、人間は単なる物体である、というのがヨーロッパの考え方である。だから、清流の鮎を書くのは無駄だから真っ白なレースが良い。

 もう一つは、おそらく贅沢の大衆化だろう。もともと大衆こそが情が厚く、心を大切にした。でも大衆が贅沢になっていく途中で大衆は心を捨ててきた。それもあると思う。

 これからの材料や製品は、これまでのように逆方向のポテンシャルを強引に動かすのではなく、正方向のポテンシャルを使う、それこそが高度な学問というものだろう。そして使い手が情の深い人間であることも忘れてはならない。

おわり