― 科学は人類に貢献したか? ―
環境問題が起こり、身の回りに物があふれているのに驚いて、日本のマスコミは「科学技術の進歩が環境を破壊する」というキャンペーンを打った。十年一昔と言うので、少し記憶が薄くなったが、10年前「リサイクルをしよう」とか「地球に優しい」という言葉が流行した時のことを思い出す。
私はマスコミ嫌いではないが、マスコミは時に視聴率を稼ぎたいばかりに、感情をあおることがある。特に報道の命とも言うべき「取材」をしないで記事を書く記者もいる。環境問題の騒動の時にはそういう記事が多かった。
ともかく、日本社会が科学に対して疑いの目を持ったことは確かである。そして科学技術の評価はその後、大きく二つに分かれている。一つは政府が進めている「科学技術基本計画」のように、「日本の競争力を高めるためにさらに科学技術を進めよう」というもので、第一期5年で17兆円、第二期5年が24兆円、そして第三期も25兆円で提案されている。
一方では、科学技術が環境を悪化させ、人類の文化を破壊するということで、進歩を否定する人も多い。この二つの意見が年々、鋭く対立してきたように見える。それも慎重にデータを調べたり、議論したりするのではなく、多くは先入観や利害関係、そして感情論が多い。
そこで、ここでは包括的になるが、「科学は人類に貢献したか?」を20世紀の日本を中心にして振り返ってみることにする。
科学技術が進歩したことによって人類が被害を受けたものとして大きなものを4つ上げたい。
1) 戦争の死者数が膨大な数になった。
2) 資源の枯渇が極端に早まった。
3) 家庭が崩壊した。
4) 不安が増大している。
科学技術が発展する前、戦争は刀剣で戦っていたが、第二次世界大戦では自動小銃、爆撃機、原子爆弾などの「大量殺戮兵器」が登場し、実に全世界で6000万人の死者を出した。特に、アメリカ軍が行ったヨーロッパや日本の都市への無差別爆撃、広島・長崎への原子爆弾の投下、ドイツ軍が行ったソビエトへの侵攻などの被害が大きかった。これはもっぱら科学技術の責任である。
世界の資源はまだ枯渇していないが、日本では足尾銅山が枯渇した。徳川幕府が開かれた時に始まった足尾銅山は、もし削岩機やベルトコンベアーなどがなければ800年はもつところだったが、わずか30年で枯渇した。かつて世界で一番の産銅国家だった日本の銅山はすべて枯渇した。日本国民は足尾銅山の産銅速度が高くなったことによって恩恵を受けたが、枯渇を早めたのは科学技術だった。
広い国民のアンケートによると、日本人の第一の生き甲斐は「家庭」であり、「仕事」「国家」「趣味」などを遙かに超えて50%を上回る人がそう思っている。しかし、家電製品の普及によって家事労働が軽減し、コンビニエンスストアなどが発達して、家庭を維持するのが容易になった。単身者の増加、大家族の減少、それに個人の行動がバラバラになり、家庭が崩壊しつつある。これも科学技術の影響が大きい。
地震や大規模災害、建築物偽造事件など、「正直に働いている個人が、ある時、突然、大きな災害に遭う」という不安は増大している。10年前に比較して危険になった、あるいは今後はさらに危険になると感じている人は国連の調査によると日本人の60-70%に及ぶ。本来、科学技術の発展によって社会は安全になっていくのが順当であり、これも科学技術の歪みによると考えられる。
これに対して、科学技術が人類や日本人に貢献したと考えられることもある。3つ上げる。
1) 寿命が長くなり健康になったこと
2) 物質が豊かになったこと
3) みんなが豊かになったこと (すべての人が王様)
日本人の平均寿命は1920年には42歳だったのが、2000年には80才を超えた。男女の差があるが、おおよそこのようである。平均寿命が長くなる理由は、医学の進歩もあるが、もっと寄与が大きいものとして、栄養、衛生、情報などがある。食物が豊富になり、冷蔵庫や殺菌剤が発達し、テレビなどで危険を知ることができるようになると、それだけで寿命が延びる。
現在の日本人は、「大病」をしないで70才ぐらいまで生きることが多い。いかに健康になったかがよくわかる。これは科学技術の進歩による貢献である。80才と42才というと人生は約2倍になったことを意味している。
お歳を召して「自然が良い。私の若い頃は・・・だった。科学技術はろくなものではない。」と言われる人がおられる。ご年配なので尊敬しなければならないし、面と向かって失礼なことを言ってはいけないが、あまり自信たっぷりに言われると、つい「もし、それで良いなら、あなたはもう居ません」と言いたくなることもある。
「物」が豊かになったことは確かであり、その恩恵も受けている。冷蔵庫や洗濯機、テレビ、自動車、携帯電話などの便利さを私たちは味わっている。水洗トイレ、ガス風呂、瞬間湯沸かし器なども失いたくない。プラスチックの袋は悪者のように言われるが、ポリ袋がないとずいぶん不便である。欠点はあるし、「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのも確かだが、物の恩恵も受けている。これも科学技術の進歩による。
もう一つ、大事なことがある。科学技術が進歩しないと、その恩恵は国の一部の人が独占するだけである。ところがかなり発展するとその恩恵を国民が等しく味わうことができる。家電製品、携帯電話、自動車の普及率を見れば理解できる。人類が社会を作って以来、国民のほとんどが「貧民」だった。それに比べると現在の日本は「全員がお殿様」のような生活である。これも科学技術のもたらしたものである。
科学技術がどの程度、人類に貢献したかは人によって見方が違うだろう。私は科学者でありながら、やや科学否定の論者である。でも、同時に貢献したことは認めたいと思う。もしこれが80年前なら、私も居ないか、居てもよぼよぼで手はアカギレだらけだろう。感謝。感謝。
ところで、I like the future.である。これまでの欠点を整理するのは良いが、「お前が間違っているから、俺も間違えるぞ!」というのは前進的ではない。ここで上げた3つの良いところを残して、4つの悪いところを無くす方法は無いだろうか? 戦争を止め、物を大量に使うのを止め、家族を大切にし、安全な環境作りをすればよい。
それは実は簡単なことだ。ということは、「科学技術は人類に貢献したか?」という問い自体が無意味で、問いは「私たちは科学技術を、私たちの希望に沿って使ったか?」でなければならず、もし科学技術を私たちの希望に沿って使っていないとすれば、それは科学技術の責任というより、政治、経済、哲学の問題だろう。
2005年の暮れに、政府が科学技術基本計画を出した。それには政治、経済、哲学がなく、単に「科学技術を振興することは大切だ」と言う前提が書かれていただけだった。
おわり