― 自然には「叡智」があるのか? ―
ファーブルは彼の著書「ファーブル昆虫記」の中で「これほど巧妙な仕組みが『自然』にできあがるとは考えられない。神の手を感じる。」と述べている。私もムール貝の接着を勉強した時、最先端技術の接着技術よりムール貝が優れていることに驚いたものである。
「愛・地球博」という歯の浮くような名称で行われた愛知万博のメインテーマが「自然の叡智」だった。何も考えないで行動する人が羨ましい。愛知県で「自然の叡智」を本格的に研究している人はそれほど多くないから、誰がメインテーマに設定したのだろう?
著者は、10年ほど前から「自然の叡智」というものの研究に取り組んできた。研究手法は「自然そのもの」を解析すること、自然を最大限に活かそうと努力した結果である「伝統的なもの」を調べて整理をすること、そして現代の学問との関係を見いだすために、科学的手段を使って自然を「模倣すること」なども試みてきた。確かに驚きの連続だったが、今は違う。
現在の結論をズバリ言うと、
「自然には叡智がない」
と言いたくなる。あまりハッキリ言うと文豪・正宗白鳥のように人生の後半になって、前に言ったことを取り消したくなるといけないので、
「どうも、自然には叡智が無いらしい」
ぐらいに止める。
自然現象をいろいろな角度から調べてみると、
「自然現象は科学的原理に沿っている。」
それは当然だ。これをより正確に表現すると、
「科学は自然現象を観察することによって作り上げたものだから、自然は科学的原理そのものである。」
と答えるのが正しい。科学の先生は自然であり、自然が科学的原理に従っているのではない。でも結果的には同じになる。
かつてニュートンは「未知の海原へと航海する」と言った。そしてその航海は1953年のDNAの構造解明によって終わった。まだ、多少、自然現象で解明できないものが残っているが、それは「宇宙はどうして誕生したのか?」「原子より小さいものはどういうものか?」など私たちが知覚できないような巨大、微小、超高圧などの領域である。
私たちの地球上にはそのようなものはないし、また、もし存在しても私たちの生活には関係がない。その点で、
「すべての自然現象は科学で説明できるようになった。」
あるいは、もう少し謙虚に言うと、
「私たちが知覚できる自然現象で『不思議』と思うことは無くなった。」
と言うことができる。(何でも聞いてください。全部、解答します。)
さらに加えて、「科学の力を応用して少しでも良い物を作ろう」と学問と産業が鎬(しのぎ)を削っている。だから、必然的に自然の叡智は消滅するのである。つまり自然現象の内、利用できるものは次から次へと利用されていて、現状はむしろ「まだ、何か無いか?」と捜している。このような環境では「自然の叡智」は存在できない。
それでは、何を持って「自然の叡智」と言っているのだろうか?みんなが言うのだからそれなりに真実があると思う。私は愛・地球博が言っている「自然の叡智」とは次のような内容であると推定している。
自然は単純な科学の原理に沿って進む。無生物の自然現象自体も、生物活動もすべて科学の原理に沿って行われている。人間の行動も同じである。でも、一つだけ違うことがある。それは「人間の希望、欲望、夢、して欲しいこと」が科学の原理に従っていない。
例えば、「蓄積したものは、使えば無くなる」というのは自然の原理である。これを質量保存則という。毎月、ご先祖様の貯金を取り崩して遊べば、貯金は無くなる。そのぐらいは判る。でも人間の欲望がそう考えるのを嫌がる。そこで人間は「蓄積したものが無くなると考えるのはイヤだから、無くなるまで使おう」とする。現代の石油などがそうである。
でも、それは生物でも同じだ。20世紀のはじめまで大型動物が居なかったアメリカ大陸の五大湖に浮かぶロイヤル島に、ある寒い冬、氷を踏んでオオシカが島に渡った。オオシカは人間と同じで「ロイヤル島にどのぐらいの草があるか、考えたくない」ということで草を食べ尽くした。そのおかげで20頭のオオシカは3000頭まで増えた。
ある年の春。オオシカがすべてを食べ尽くしたロイヤル島の草は生えてこなかった。科学的原理に従って島の光合成量は極端に少なくなり、オオシカは餓死して800頭にまで減少した。そこに、オオカミが渡ってきた。オオシカがロイヤル島に移ってから40年目の冬だった。
オオカミは追いつめればいくらでもとれるオオシカを「無くならないように考えて」捕獲した。ロイヤル島に降り注ぐ太陽の光、それが光合成で草木に変わる量、オオシカがそれを食べて繁殖し太る量を計算してそれ以上は捕獲しなかった。
オオカミがロイヤル島に渡ってきた年から、島には平和が訪れた。オオシカはもう大量餓死することなく、何匹かが一年にオオカミの犠牲になれば良くなったのである。これを「自然の叡智」と呼ぶ。しかし、叡智でもなんでもない。後先を考えずにオオシカを食べるオオカミは大昔に絶滅し、現代に生き残っているオオカミはそのぐらいの計算はできるのである。
なぜ、これを科学的に見て「叡智」と言えないのか?それは「入ってくるものしか出せない」というぐらいは小学生でも判る。小学生が判ることを大人が叡智と言ってはいけない。それは国語の問題である。それではなぜ、人間はオオシカなのか?それは科学的知識が不足しているのではなく、人間は自らの欲望を制御できないだけである。
「自然の叡智」とは、「自然自身が持っている叡智」ではなく、また「科学的に不思議なこと」でもなく、「人間の心の歪みで曲がった目で見ると、当たり前のことが偉く見える」ということに過ぎない。つまり、自然の叡智とは人間の心が作った幻想なのである。
自然はリサイクルしない。それは「ものは劣化する」「エントロピーは増大する」という科学的原理に従っているに過ぎない。なぜ、落ち葉は落ちるのか?なぜ、倒壊した樹木は再び立たないのか?という疑問はすべて科学的原理に従っている。でも人間は違う。
どんどん、物を使いたい、それには一度、使った物をもう一度、使えればよい・・・と自然の原理に従わない心の欲望が目を曇らせているのだ。愛知万博では「リサイクル」をしたと報道された。でもその報道は、事実を取材していなかった。私はリサイクルして資源の有効活用はできていないと思う。自然の叡智は「リサイクルをするな」と言っているのだから。
おわり