― 複合生物 マカランガ ―
「複合生物」という用語は無いかも知れない。普通は共生生物という。複数の生物が共生して生きている状態である。でもここではあえて「複合生物」という言葉を使い、「生物の命と生」というものについて考えてみたいと思う。これは、私の研究の一つ“lifeless living materials”の対象の一つでもある。
アジアの熱帯地方に「マカランガ」という植物が生育している。和名を「オオバギ」と言って、日本では奄美大島より南で見られる。名の通り「葉が大きい木」(おおきい葉の木・・・オオバギ)で、蓮の葉に似た大きな葉をしていて、背丈も20メートル以上に達することもある。トウダイグサ科。
いかにも南洋の木らしく大ざっぱで豪快だが、このマカランガは「共生生物」として有名である。マカランガは外から見ると樹木か、あるいはせいぜい蓮の仲間のように見える。いずれにしてもどう見ても「植物」である。
でもそれはこの植物を外から見ればそうであるが、幹を割ってみると意外にも中は別の生物が住んでいる。それは「シリアゲアリ」と呼ばれるアリだ。下の写真は信州大学の市野先生のご厚意で使わせていただいたものだが、マカランガの幹を開けると、中は中空でマカランガの組織はなく、その代わりにシリアゲアリが住んでいる。
(信州大学の市野教授よりご許可をいただき、掲載しました。)
生物の共生関係というのは珍しくないが、そこのところを少し深く考えてみたい。私たちは小学校の頃、「アリの巣」というのを勉強する。土の中にアリが穴を掘り、そこに集団で生活する。アリが住んでいるその場所を、「アリの巣」と呼ぶ。決して「土」とか「穴の開いた土」とは呼ばない。
つまり土の中にあるアリの巣の壁は土で出来ているが、「土」とは呼ばず、そこに住んでいる「アリ」に注目して「アリの巣」と呼ぶ。それなら、マカランガはなぜ「マカランガ」と呼んで「アリの巣」とは呼ばないのだろうか?
ここでは「マカランガ風アリの巣」と呼んでみたい。共生関係だからどちらが支配的でも良いのだが、マカランガの中にアリが住んでいるということではなく、アリはマカランガという植物を作って巣にしていると考えてみる。
このアリは「植物アリ」と呼ばれる一群のアリの一種で、マカランガが作る栄養分も取るのだが、それだけでは栄養のバランスが崩れる。そこでカイガラムシを連れてきて巣の壁(マカランガの幹の内側)に住まわせる。そのカイガラムシが出す分泌液とカイガラムシ本体を食べて生活する。
アリは一生涯、ほとんど外に出ない。巣の中で生活し、自分の住処(マカランガ)を攻撃してくる昆虫や人間に反撃を仕掛ける。非常に戦闘的で強力な武器を持っているが、それはこのアリの専門が「戦闘」であること、つまり「兵士」だから当然である。それ以外に仕事はない。
人間がこのアリに咬まれると大型のハチに刺されたような打撃を受ける。それだからこそ、専門の兵士である。
「マカランガ風アリの巣」には、3種類の住人が居る。カイガラムシ、シリアゲアリ、そしてマカランガ。
カイガラムシは「俺はカイガラムシだ」と思っているだろう。でもカイガラムシは単にマカランガの壁を消化して別の化合物に変換させている「バイオ工場」に過ぎない。人間社会で言えば食品工場である。生きていると言えば生きているが、ただただ、一生、マカランガの壁に住み、アリに食料を提供し、時には自分自身の体を提供する存在である。
アリは「俺はアリだ」と思っているだろう。でもアリは単にマカランガの中空の幹に住んで、マカランガを守る兵士の役割を果たしているに過ぎない。それが「職業」ならまだ判る。つまり、アリはもともとその一生でしたいことがあり、夢があり、そのために仕事としてマカランガを守っているなら、アリは生き物だろう。
でもアリは一生、その幹から外に出ずにカイガラムシが分泌する甘露を食べ、外敵を守る。それだけの一生である。ちょうど、日本の企業戦士のようなもので、「その人の時間」「その人の生活」はない。ただ、朝起きて会社に行き、夜遅くまで仕事をして帰るだけだ。35歳を過ぎると脳が働かなくなり、惰性で一生を終える。そんな「脳死サラリーマン戦士」に似ている。
マカランガは「俺はマカランガだ」と思っているだろう。外から見ると確かに形はマカランガである。でもそれは洋服の部分だけで、体はすべてアリに占領されている。大きな葉を広げているのは、空気中の二酸化炭素を太陽の光を使って光合成でグルコースにしているだけだ。そのグルコースの大半はアリに持って行かれる。
でもマカランガはアリを追い出すことはできない。マカランガの葉は柔らかくて美味しいので、アリという守備兵が居なければたちまち食べられて成長が止まる。だからどんなにアリが自分の体を食べ尽くしても、アリに居てもらわなければならない。
一番、奇妙なのがカイガラムシである。何のために生きているのだろう?アリのためにせっせと食料を製造し、時にアリに食べられる。外に遊びに行くわけでもなく、自分の時間があるわけでもない。ただ「食べられるために生きる」。
1903年5月22日、第一高等学校生、藤村 操は講義で夏目漱石に叱られた後、汽車に乗り、日光の華厳の滝に身を投じて短い一生を終えた。その時の彼の辞世。
「人生不可解」
藤村 操は立派な青年だ。でも、もし私がそこに居合わせたら、
「確かに、人生は不可解だが、マカランガ風アリの巣のカイガラムシの一生も不可解だ。人生のような複雑なことを考えるより、カイガラムシの研究でもしたらどうだ。もともと生物の「生」に目的など無いのだから。」
おわり
信州大学の市野先生は共生生物などをご研究されています。たとえば次の本をご紹介します。ご興味のある方はどうぞ。
「市野隆雄 、「アリと植物-共生の自然史」 北海道大学図書刊行会 (2002)」