― 「極端」だけの歴史 ―
テレビが2005年を振り返って「この年は、どういう年だったのか?」という報道をする。JR西日本の事故、アスベスト問題、衆議院選挙、姉歯建築士事件、ホリエモンを中心としたネット事業問題、少女の連続殺害事件などがその中心である。
衆議院選挙で自民党が296議席と大勝したこと、株価が16000円になったこと、石油が60ドルに上がったことなどは政治や経済の動きを大きく変えたことだった。
でも、その他のもの、アスベスト、姉歯、ホリエモン、少女殺害などは、果たして2005年を象徴する事件だろうか?ここでは少し複雑で難しいこの問題を考えてみたいと思う。
2005年11月、私は今年2度目のアイヌ文化の調査に行った。北海道東部のオホーツク沿岸に「常呂」という地域があり、そこに東大常呂研究施設がある。その調査では東大の施設におられる宇田川教授に調査途上ででてきたさまざまな疑問について教えを受けることも含まれていた。
古代のアイヌ人は縦穴住宅に住んでいたが、私は、それがどのぐらいの時期に「現代のようなチセ(アイヌの標準的な家)」になったのかも知りたかった。そのことを先生に質問している時に、私はふと奇妙なことに気がついた。それは私が私にした質問、「アイヌのことはともかく、和人(私たち)はいつまで縦穴だったのか?」という問いに答えられないことだった。
(常呂アイヌの縦穴住宅群(復元))
私は歴史が好きで、奈良時代の天皇、源平の合戦の様子、豊臣秀吉の生涯など「有名な歴史的事実」は詳細に知っているし、年号を聞かれてもおおよそは答えられる。鎌倉幕府はいつ誰によって開かれたのか?と聞かれれば、即座に答えることができる。
そればかりではない。初代の将軍は源頼朝であり、三代将軍の実朝であり、そこで源氏の血が絶え、その後は北条氏が執権として支配してきたことなど、さらに詳細な解説もすることができる。3代の将軍の性格や主たる戦争の布陣まで知っている。
でも、平安時代から鎌倉時代に変わって、日本人の生活はどう変わったのか?と聞かれてもさっぱり何も思い浮かばない。確かに、戦後、左翼の人の歴史書には当時の民衆の生活が書かれていたが、個別的でまとまりが無く、物語性もないのでつまらない。だから、記憶にも残らなかった。
「先生、もしかすると、日本人もずっと縦穴住宅に住んでいたのではないですか?」
私は宇田川先生にお聞きした。私は工学が専門だが、先生は文学部で考古学だから歴史はご専門である。先生のお答えはほぼ”YES”だった。
女満別空港から航路、名古屋へ帰るとき、私は考え込んでしまった。
確かに、鎌倉幕府が開かれたのは日本の大事件かも知れない。それまでは貴族が支配し直前には平家という武家が権力を持ったが、基本的には王朝政治だった。それが武家政治に変わったのだから、それだけで大変な変化と言うことができる。
でも王朝政治から武家政治に変わったからと言って日本国民の生活はほとんど変わらなかったかも知れない。支配する人は大きなお屋敷に住んでいるし、周囲は平安の時も鎌倉も武士が警護していただろう。屋敷の内部に誰が居てもあまり関係がない。
年貢の率が少し変わったかも知れないが、年貢を納めることも変わらないし、政権が同じでも年貢の率が大きく変わることはある。もちろん、主権も国民にはなかった。そして、「縦穴」の議論としては、民間建築に関する技術革新も見られなかったのだから、国民の家屋は変化がなかっただろうということになる。
私が支配階級以外の人を、一般的に使われる「庶民」という用語を使わないで「国民」と呼んでいるには理由がある。支配階級は国民の内のごく僅かに過ぎない。だから大半を占める被支配階級を「庶民」というのは少しおかしいので、「国民」と呼んでいる。
「庶」という字は「庶子(妾の子)」、「庶兄(妾腹の兄)」というように正当な出生ではないことを示し、「庶務」というのも「雑多な職務」という意味合いがある。でも本来、日本国は「庶民」が圧倒的に多く、その人達を「雑多な民、妾腹の民」と言う語感の用語を使うのは控えたい。
権力が貴族から武士に移っても民家での生活は何ら変化が無かったかも知れない。ということは「鎌倉時代」という区分自体は歴史的に意味が無い可能性が高いのだ!? もしそうなら、今まで、無意味な年号をずいぶん覚えさせられたものだ。
ところで、日本の歴史の中で、国民の生活が大きく変化したのはいつなのだろうか?それを知らなければアイヌの家が縦穴からチセに変わったのはいつか?などという質問をするだけの資格はない。私は恥ずかしくなり、赤面しながら中部国際空港に降りた。
私にとって、私の歴史認識にとって大きなこのことは2005年11月に起こったことだった。だから12月の年の瀬はそれからすぐだ。私の頭が「鎌倉時代に何の意味があるのか?」という思いがいっぱいの時に、2005年の十大ニュースが放映された。空しく聞こえたのも無理はない。
でも、社会学には「極端な事件はその社会を象徴する」という原則がある。たとえば、JR西日本の事故が起こる。これは偶然ではなく、安全を軽視し競争第一の社会だからだとか、日本の現場でベテランの技能をもった人がリストラでいなくなり現場の足腰が弱くなったなどが背景にあり、それが極端な例としてJR西日本の事故という形を取ると説明される。犠牲者が負傷を含めて600人で、1億2000万人の国民に比べれば小さいということとは違う。
姉歯建築士の事件も、一級建築士という専門職の倫理が地に落ち、政治と建設業界に関わる長年の癒着が産んだ国民無視の行政を象徴したものであると取ることができる。姉歯は一人ではない。姉歯は氷山の一角であって、それが表面に出るにはそれなりの社会的意味がある。欠陥マンションの犠牲者の数は問題ではないのだ。
女児殺害事件も同じである。このホームページにも書いたように、日本の女性が日常的に性的アピールをし続けること、男性が女性に暴力をふるうことを何とも思わなくなってきたことなどの男女間の問題が底流にあるとも解釈できる。
さらに、アスベスト問題も同じである。単に100人程度の人が影響を受けたのではなく、化学物質などが環境を汚染している一つの例として顕在化したに過ぎないと見るのが一般的であろう。確かにホリエモンの一件でもそのように見た方が社会の変化を楽に見ることができる。
でも本当だろうか?貴族支配から武家支配に変わることはある意味で大きな社会的な変化の象徴だが、その「大きい」というのは何が大きいのだろうか?大きい小さいという場合には、その社会で起こることについて「重み」を書けなければならない。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは大きいことで、同じ時期にそれまで縦穴住宅に住んでいた「相模の国の次郎兵衛さん」が小さな掘っ立て小屋を作ったことが小さいというのはどういう判断基準だろうか?国民の生活を考えたら、後者の方が大きいかも知れない。
もし2005年という年を「国民」からとらえるとどうなるだろうか?6歳の児童は2004年も小学校に入った。18歳の高校生は前年と同じく大学を受験した。サラリーマンは電車に乗り、女性は化粧をした。老人はリタイヤし、年金生活を送った。無駄なリサイクルも相変わらずやっている。だから2005年はなにも起こらない年だった。
名古屋の万博は入場者が国民の1割以上になったから、特徴的かも知れない。でも国民は万博がなければどこかに行くのでそれもそれほど意味があるとは思えない。携帯電話が大きく普及した年なら変化はあると言うことになるだろう。
もしテレビが2005年は国民にとって、どういう年だったのか?という番組を組み、国民の生活や考え方に焦点を当てて、その深淵に迫ることができれば大変、面白かっただろう。「極端」だけを見て平均を推察するというのも意味があるかも知れないが、無批判にそれを認めるのはもうこの辺で終わりにした方が良いだろう。
極端だけ整理し、報道するのは楽だからそれで社会を推定して良い、興味があるからそれが真実だ、という考えは転換するべきと思う。
おわり