― こころのDNA ―
犯罪や拉致被害者の鑑定などにもDNAが使われるようになって、「DNA」という存在もすっかり定着してきた。もちろん、DNAの科学的な内容が正しく理解されている訳ではないが、それでも「DNAって何?」と聞く人も少なくなってきたのも事実である。
DNAは自分の設計図である。それは「高分子」という紙の様なものに書かれており、文字は「コドン」という20種類のアルファベットのようなものを使う。DNAは親からもらい、半分が父親から、半分が母親からである。
だからDNAはその個人個人で違う。たとえ兄弟でも父親からもらうDNAの部分と母親からもらう部分が違うので、似ているけれどやはり違う。一人一人違うので人物を特定できる。そして自分の足は短いとか、目が黒いとか、頭がハゲやすいことなどDNAが決まれば決まっている。
ところで、DNAは親からもらう。親はその親からもらう。化学物質だから特別なことが無い限り、変わらない。親から子へと伝わり、その内容が変わらないのだから、本来は大昔からずっと変化しないはずである。でも、大昔の日本人と今の日本人では姿形(すがたかたち)が違う。なぜだろうか?
江戸時代に二度にわたって「朝顔ブーム」がおこった。第一回目が文化文政の時であり、西暦で言えば19世紀の初めである。普通の朝顔は形も色も決まっている。それを栽培を工夫して変わった朝顔を作り出す。ちょっと見るとそれは朝顔とは思えないほどの色と形をしている。
二回目の朝顔ブームは嘉永安政の時、つまり19世紀中間に起こった。第一回の後だったこともあって、人々はもっと奇抜な変種を好んだ。朝顔なのに牡丹に似たものや八重咲きも現れた。
少し脱線するけれど、朝顔の変種を楽しむという優雅な趣味の世界でも人間の業が見え隠れする。文化文政の頃の第一回目のブームでは、もっぱら趣味人が変種を楽しむブームだった。でも第二回目となると変種を作るのが「お金儲け」になるようになった。少しでも変で綺麗な朝顔を作るとお金になり、それで大きなブームになったのである。これを「かねのなるき」という意味で「金生樹」と言ったものである。
文化もやがて金銭変わる・・・人間はさみしい。
変種の朝顔がお金になるということになると、科学的知識が誕生する。普通、変種は繁殖力が弱いので、子供を作ることができない。だから兄弟株の関係にある「親木」を作り、これから変種を作る。変種自体から子供を作るのではないので、そのままのものはできない。たくさん播いた中からわずかな比率で変種を得るのである。
その頃、ヨーロッパではメンデルが遺伝を研究していたいが、日本でもほぼ同時に、多くの「遺伝形質」は相互に独立であり、組み合わせることによってDNAの違う朝顔が得られることが判っていたのである。メンデルの“エンドウ”と江戸の“朝顔”が対応していた。
このようにDNAは本来は変化しないが、DNAの組み合わせを工夫すれば表面上は変わる。それはDNAの情報があまりに複雑なので、組み合わせれば意外な情報が引き出せるからである。もう一つは放射線や食物中の発ガン物質で、それも生物の進化や人間の進歩に役立ってきた。
それで時間と共にDNAが変わると言っても、それほど大きくは変わらない。いくら髪の毛を茶髪にしても日本人は本質的に黒髪であり、それは一万年以上も前から変わっていない。そして変わらないのは体の形だけではない。
私たちが「好ましい」と思い、「好きだ」と感じるのもその多くはDNAの命じるところである。だから私たちが美しい、嬉しい、楽しい、辛いと思うこともずいぶん前から変わっていないのである。科学が進歩し、囲炉裏がエアコンになり、馬車が新幹線に代わり、のろしで知らせる代わりに携帯電話を使うようになってもDNAは変わらない。
DNAの変化は科学の進歩より遅いのである。だから私たちは今、大変なストレスの中にいる。DNAの命じる世界、DNAが心地よく感じる環境と、現在の社会とはひどく違う。
それでは、私たちのDNAはどのような社会を望んでいるのだろうか?人間についてはDNAの解読を進めている最中だから、まだ人間のDNAの内、何パーセントぐらいが100万年前、どのぐらいが1万年前、そして最近の情報はどの程度、組み込まれているというようなデータは見あたらない。おおよそどの程度、という位だ。
それによると現代人のDNAは、体を形作るような長期的なものは別にして、意識を作り出した部分は1万年前頃のものではないかと言われている。一万年前というと日本では縄文時代で、狩猟時代だった。当時の日本人が毎日、どのような生活をしていたかもハッキリはしていないが、私は次の絵のような様子ではなかったかと考えている。
鬱蒼(うっそう)とした森、襲ってくる自然、そして毎日の糧を与えてくれる自然。その中で人間は自然を形作る一員としてひっそりと過ごしていたに違いない。日本は現在でも森林面積が国土の60%以上を占める。平野の多くが林であった当時は海岸線の一部を除いて、全島、森林だっただろう。
すでに科学が進歩し、何も恐れるものがなくなった現代の人間は「自然が襲う」という感覚を持つことは希である。でも、1万年前の日本人にとっては、自然は自分たちを襲ってくるものであり、畏敬するものであり、従うものであった。
自然を信仰し、自然を敬い、そして自然の中で安堵した。私たちのDNAは自然に囲まれた環境の中で出来てきたものである。それが現代の私たちの体の中にある。私たちが自然の風景が美しいと思い、けばけばしい鋭角的なデザインより自然の緑に心が和むのも、古いDNAが私たちに語りかけるからであろう。
身の回りには宇宙からの放射線や食品からの発ガン物質、夏の太陽の光など、突然変異をよぶものが多い。だから私たちのDNAも突然変異を受けているだろう。でも種族間の競争が少ない人間では、突然変異によって新しくできた種の競争力はそれほど重要ではないので、DNAの保存率も高いと考えられる。
日本人は今、豊かな社会に住んでいる。少し昔の人が今の日本人を見たら「なんと、うらやましいことか!」と驚嘆するだろう。まさかその社会が、女児の殺人に震え、受験戦争で軋み、リストラに怯え、自殺者が増え、そして豊かにしてくれた社会の行く末に不安を持っていることなど気がつきもしないだろう。
私たちは、不思議なことに、私たちの体、DNA自身が望むことに背を向けている。私たちの浅はかな頭脳の動き、頭の幻想にとらわれ、コンクリートの都市、特徴のない平坦な社会、無限の競争システムを自分で構築し自分で苦しんでいる。私たちの頭脳は自らが作った官僚システム、マスコミ、専門家集団などを御する力を失い、望まない方向へと連れて行かれつつある。
おわり