― ヌプケウシ紀行 この美しき大地 ―

 人はなぜ、自然を美しいと感じるのだろうか?そして南方より北方の景色に美を感じるのだろうか?人間はなぜ、昆虫のために着飾る「紅いバラ」の魅力に吸い込まれるのだろうか?


(北見の大地。著者撮影)

 私は北見のことを書きたい。オホーツクビール、製材所、ブレンドハーブティー、大麻自生地、農業試験所、とがった三角の山、北見短期大学、北見工業大学、そしてポンピリカ美術館・・・すべては素晴らしく印象的だ。

 でも北見の風景はそれらの人間の活動とはまったく次元が違う。ここに神が宿るのではないか、ここにすべての天使が集まっているのではないかと見まがうほどの美しさだ。ただ広いからではない。ただ寒いからではない。一つ一つの線、一つ一つの色が美しいのだ。

 著者が何の心得もなく、シャッターを押した。どんなアングルで撮ろうと、どんな被写体であろうと北見は美しい。ジャガイモが採れ、タマネギは美味しい。大地は香り、風は襟を正す。

 北見市内にはポンピリカ美術館という名の美術館がある。小さな二階屋のその美術館には膨大で素晴らしい絵画があり、そしてピカソの版画が壁に飾られている。おそらくは世界でただ一つ、ここにピカソの版画があるのだ。その前に立つ時、誰もが驚愕する。その意外性、それを説明するご主人。すべては夢の世界である。

 北見は別天地である。ここには美しさ、美味しさ、そして文化がある。

 明治30年、高知から移民団が28日と3日の旅を経て北見に到着、続いて屯田兵もここに入った。多くの努力があり、偉人が輩出した。今でも北見は刻苦勉励、質実剛健な気質が残っている。ホテルにはこの地に来た宣教師ピアソン夫婦の名前がつき、アイヌの地名が昔を偲ばせる。

 数限りない美談は北見の開発の歴史に特徴的である。伝説として伝えられている話は人間の力と魂が感じられる。でも、人工物は汚い。先端技術も醜い。それがどんなに工夫されたものであっても、デザイナーが精魂を尽くしても、北見の自然に比較して圧倒的に汚い。

 北見に来て、そこに滞在し、郊外を見学し、私はなぜ自然が美しく、なぜ人工物が醜いのかを悟ることができた。北見の自然を思い出すと、北見の人工物が目をよぎり、胸が痛む。北見市の中心には市庁がある。そこを中心にして町並みが広がっているが、ここには北見の自然の美しさはない。

 北見の自然は雑然としている。自然の方が色合いも見事ではない。自然は造形も決まっている。でも、人工物の醜悪さに比べれば、北見の自然は常に純粋であり、純真であり、だからこそ人の心を打つ。

 美しい自然を汚すのは人間の心である。そこには権力に対する媚びがあり、自分の利得があり、他者を蹴落とす論理が見え隠れする。自然が美しいのは、自分自身で生き、自分だけで最善を尽くすからである。自然を汚すものは人間である。なぜだろうか?なぜ人間は自然を汚すのだろうか?

 ドーキンスはその代表的著書「利己的な遺伝子」に人間の行動、生物の本能の基本を明確に示している。それには「自分の子孫を残す自分の保全に全力を注ぐ」ということであり、「自分自身は子孫を残すためにのみ存在する」という。

 私は思う。美しい自然の中で生活を営んでいる人たちは、疑問を感じなければならない。なぜ、自分たちが工夫を重ねて作り上げた町並みが、何もデザインしない自然より汚いのか??その一つの解はアイヌの文化が与えてくれる。私がアイヌの文化に接することが出来たのは幸いであった。

おわり