― 命はどこから来たのか? ―

 地球は命ある生物に満ちあふれている。そのため、命の大切さ、「命の尊厳」が強調される。そんな貴重な「命」、それはどこから来たのだろうか?

 この問題は少し前まで人間が解くことができない大きな疑問だった。

1) もし、石ころのような無生物から「命」が誕生したとすると、命あるもの(生物)と命がないもの(無生物)の境はない。それなら「命の尊厳」自身も怪しくなるし、「神」「霊魂」なども否定される。
2) もし、宇宙から飛んできたとすると、真空中で零下何百℃という環境でも何年も生きているような生物でなければならないが、どうも地上にはそういう生物はいない。
3) もし、神により作られたなら、最初は細菌のようなもので、それが徐々に進化したなどとは考えられない。なぜなら、神は人間を含めたすべての生物を、創造の日に一度にお作りになったに違いないから。

 宗教的にはともかく、科学的には3)がまず否定された。それは主としてダーウィンの進化論によって確実になり、その後の化石などの発掘によって確定した。現在では原始的生物から徐々に進化を遂げて、ついに人間が登場したところまでの歴史が明らかになっている。

 次に2)が否定された。宇宙から命が飛んできたのではないかという疑問を解消するために、宇宙から降ってくる隕石の分析が何十年と行われた。その結果、アミノ酸のようなものは発見されることがあったが、子孫を残せるような生命を見いだすことはできなかった。

 地球の近くには生命がある星はない。だから隕石の上に乗った生物は何千年も何もない冷え切った宇宙空間を飛んで来なければならない。放射線が飛び交い、すべての材料は劣化する。地球上の生命はそんな環境では生きることができない。

 そうこうしている内に、1953年,シカゴ大学の大学院生、スタンレー・ロイド・ミラーが画期的実験を行った。アンモニアとメタンに水素と水蒸気をフラスコに入れ、何日間も高圧放電を行った.そうして、フラスコに残った液体の成分を分析したら、いろいろな種類の有機物とともに、アミノ酸の一種であるグリシンとアラニンが見つかった。アミノ酸は生物をつくるタンパク質の原料だから生命が自然に発生することがあり得ると結論した。

 奇しくも同年の1953年。生命の源であるDNAの構造をイギリスの学者、ワトソンとクリックが解明して発表。たった2ページの論文だったが直ちにノーベル賞を受賞した。数あるノーベル賞の中でも最高と言われるのは、近代科学が抱えた最大の疑問を見事に解明したからである。

 体をつくり、生活をし、子供を作って老化するという生物のすべての活動がDNAという化合物の中に書かれ、記憶され、そして読み出されることがわかった。そしてその原料はミラーの実験によって自然界から与えられることも判明したのである。この二つで人類最大の疑問は解けた。

【命はどこから来たのか?  結論】
 命は無生物からできた。それも比較的簡単にできた。我々は石ころと同じである。

 著者は生物と無生物の境の領域を研究しているが、自分が相手にしているものが「命がある」「命がない」のどちらでもない。

「ご臨終です」
と言えばまもなく命を落とすことであり、枕元に座った医師は呼吸が止まるのを診る。もしこれが命なら「命がないのに呼吸するもの」を私は作ることができる。

「火星に着陸したら動くものはなにもなく、死の世界だった」
と言うなら、私は「動くけれど命がない」というものを皆さんにお見せすることができる。

 子供(複製)を作るものはいろいろ見つかっている。生命体と非生命体の境はきわめて微妙である。もともと鳥インフルエンザなどで心配されているウィルスは生物と無生物の間であるし、狂牛病の元になる変性プリオンに至っては単なるタンパク質だから、従来は「無生物」に分類されていた。狂牛病が発生して初めて「無生物に感染する」という考えられないことが起こった。

 ガイ・マーチーと言う人が面白い本を書いている。博学な彼は地球上のさまざまなものの動きや運命を観測して整理し、次の様な意味のことを書いている。

「川は、最初はチョロチョロと流れ、まるで幼児のようだ。それがだんだん成長して青年期の川は激しく流れる。それからしばらくして川は壮年期を迎える。川の畔には木々が茂り、川面には魚や鳥が見られるようになる。繁栄期を迎えるのだ。そして川は徐々に老化し、穏やかな流れになり、やがて枯れて死ぬ。川の一生を見ると、これが何故、私たちのような命のあるものと違うのだろうか」

 命があるものはその命が一瞬にして奪われるので、私たちにそのことがはっきり判る。だから「命は大切」ということになる。「かけがえのない命」「命は地球より重い」などという感傷的な言葉も生まれる。でも「命のないもの」からそれを見るとどうだろうか?

 たとえば川には命がある。でも時間の進み方はゆっくりしていて寿命も長い。だから川から見れば人間はカトンボのように一瞬にして命を失う、うたかたのように見えるだろう。ウスバカゲロウという小さな虫がいる。成虫になってからの寿命は数分から数時間と言われる。私たちはこのカゲロウを見て「命の尊厳」はあまり感じない。数分で死ぬのだから、何か死ぬために生まれてきたように見える。

 でも川から見れば私たちの命も瞬間である。命は大切だが、あまり過度に「たった一度の人生」とか、「どう生きるか?」などと頑張らず、その日その日、目前のことに汗を流しながら生きるようにしたらどうだろうか?

おわり