― 不幸は幸福 幸福は不幸―

 サミーは11歳の男の子、妹のエディリンは7歳。マニラの近郊に住む両親とはすでに別れて半年になる。ここミンダナオでサミーは働き、エディリンは小学校に通っている。

 健太は19歳。東京の大学に入学してそろそろ2年。大学では9月の後期から専門の講義が始まったが、だいたいは小遣い稼ぎのアルバイトをしている。

 サミーの両親は数年前から患っている。父親は胸を悪くして最近では時々、喀血するという。母親はもともと病弱だが、死産もあって今は床についている。

 健太の父は小さい会社を経営している。時々、厳しい経営の説明をしてくれるが、今は一息ついているらしい。なぜなら、健太の授業料も払ってくれるし、母親も働きにも出ずに買い物に精を出している位だから。

 サミーは小学校3年まで学校に通っていたけれど、親の病気が本格的になってからというもの、学校に払うお金がなくなった。せめて妹を学校に通わせようとサミーは働きだした。大人の手伝いをして1ヶ月手間賃として800ペソをもらう。そのうち、200ペソで妹の授業料と生活費にあて、残りはマニラの両親に送る。父親は小さな畑をやっているが、月に600ペソもいかない。サミーの稼ぎが一家を支えている。

 健太は浪人することなく大学に入ることができた。将来何をするということも決めていないが、数学ができたし、高校の先生の勧めもあって機械工学科に入った。下宿代と生活費として16万円が毎月、親から振り込まれる。でもほとんど遊べない。だからアルバイトをして遊興費に充てている。本は買ったことがなく、学費というものは不要である。講義で教えてもらった分だけノートすれば良いし、第一、高い専門書など買いたくはない。そんなものを買うくらいなら遊びに使いたい。

 母親が入院した時の借金が4万ペソになると言う。毎月600ペソを送ってもその借金を返すにはかなりの時間がかかる。でも父親は胸の病気もあって長くは働けない。兄弟も多いけれどみんな女の子だけだから俺が稼がなければならない。毎日、サミーは小学校まで妹を送って市場に行く。
「僕も学校に行きたい。学校に行かないとまともな大人になれないから。」
 サミーは夢とは知っていても妹が学校に入っていく後ろ姿を見るとそう思う。
「でも、いいや。家族のためだ。僕が働かなくちゃ、お母さんも死んでしまう。」
 お弁当は朝、妹が作ってくれる。まだ7歳だけれどちゃんと卵を焼いてご飯の上に並べて弁当を作ることができる。美味しい。弁当を食べると妹を思い出す。学校でうまくやってくれると良いんだけれど。

 健太は何もすることがない。機械工学も興味がない。テレビも面白くはない。最近、CDもあまり聞かなくなった。自炊の生活は荒れているけれど立て直す気力はない。アルバイトも面倒になってきた。でも大学にもアルバイトにも行かないのもと思って楽なところを選ぶ。ああ・・・どうしようもない。

 東南アジアの小学生と日本の大学生。

 サミーはその小さな胸には思いがいっぱい詰まっているけれど、顔は輝いている。毎日をおろそかにすることはできない。病気になるなんて許されない。僕は一所懸命働き、絶対に家族を救うんだ!お父さんもその内には治るだろうし、こんど帰った時にはお母さんもきっと元気になっているに違いない。それまで僕が頑張るんだ!!

 健太はなぜ大学に行かないのだろう?大学に行き勉強し、立派な技術者になればそれだけ充実した人生を送ることができることは健太も頭では良く知っているが、体が動かないのだ。彼の体は動物的に反応している。朝の8時に朝食が出るサル山のサルは8時に起きるが、11時に朝食が配られるサルは11時に起きる。「今、サボれるだけサボる。将来は将来」というのが動物の習性である。恵まれた健太にとって、一所懸命、人生を送ることは難しい。サミーより難しい。

「貧しいものは幸いである」
なぜか?貧しければお金持ちになれる。けれども、お金持ちはお金を失う危険があるだけだ。貧しいものは努力ができる。努力して家族を少しでも楽にしてあげる楽しみがある。それが励みになる。

 京都大学を退官されたエネルギー専門の新宮秀夫教授は現役の頃、「幸福ということ」という本をNHKから出されている。そこに幸福の四階建てについて書かれている。時々、新宮先生にお目にかかりお話を聞く。


 
 幸福の四階建ての一階は「お金持ち」「名誉」「恋の成就」である。美人と結婚し、名誉を得て巨万の富を得れば幸福の家の一階に住むことができる。そしてもしその人が死ぬまで、恋も名誉もお金も失うことなく、また悔しい思いをしないで人生を卒業したら二階に上がることもできる。

 でも富や名誉を10年も持ち続けるのは至難の業である。お金があるとお酒と女に使う。そして肝臓病と家庭争議が起こる。富とお金を持っていて使わないと不満になる。だから長続きしない。

 ミンダナオのサミーは三階の住人である。彼は苦難を背負い、悲しみを経験し、そしてまだ11歳なのにそれを克服している。まだ働いているし母親も病気である。でも彼はすでに克服している。事実としてはまだ数年続くだろうが、彼の心は決まっている。そして克服している。だから三階である。

 四階の住人は克服できない苦難や悲しみの中にいる。でも本当の幸福はこの四階の住人だけに与えられる。彼らは失うものがない。彼らこそ人生の勝利者であり、幸福の内に終わる権利を持っている。私はまだこのことがよくわからない。おそらくそうだろうということが判るだけだ。

 健太は恵まれているのに、なぜ生きている実感も、喜びも無いのだろうか?それは、彼が「幸福」だからである。健太はなぜ、「不幸」なのだろうか?彼は「幸福」だからである。彼は幸福だから何もやることはない。何もやることが無いのは不幸である。もし有り余るほどの仕送りがあれば、外に出て女性と遊び、酒をあおるだろう。そして一時的に一階の住人になることができるが決して二階には上れない。彼は一階の生活でつぶれてしまう。

 不幸は幸福の源泉であり、不幸そのものが幸福である。幸福はすべてを失うので不幸になり、そのもの自体が不幸である。このことを知れば人生は幸福になる。社会も持続性になる。そして姉歯事件もなくなる。

おわり