― 五省の呪文 ―

 明彦は隣に座っている幹部候補生から四角く硬い石けんを受け取り、手のひらに残った僅かなかけらを頼りにふくらはぎを擦った。これまで、それほど肉体を鍛錬していなかった敏明にとって、毎日の教練は厳しく、全身の疲れもさることながらすでに足の筋肉はパンパンに張っていたのである。

 芋の子を洗うような風呂桶だったし、シャワーの下では顔や頭をただただ擦るだけのあわただしい入浴であったが、それでもこの規則正しい生活の中では体を休めることのできるひとときでもあった。6時25分に自習室に入り号令を待つ。この5分間、敏明の耳には21時45分に交代で叫ぶ「五省」が耳の奥で響いていた。

Photo_2 「至誠に悖(もと)るなかりしか」

 ここ江田島で教練を受けている間は、至誠に悖る行動はほとんどしてない。なぜなら、朝から晩まで規則正しい教育を受けているからだ。でも明彦は数年前の自分を思い出していた。「誠を尽くしていたか?」「どんな時にも友を裏切ることはなかったか?」と自省をすると、恥ずかしい記憶が頭をよぎる。

Photo_3「言行に恥ずるなかりしか」

 小さい頃から大切にされ、それなりに優秀だった自分だが、振り返ってみると自分の言動は必ずしも立派なものではなかった。時に気分が乱れる時があり、酒を飲んで激しく言い争ったことも記憶に新しい。俺は立派な海軍士官になろうとしているのに・・・俺は五省に欠けるところがあった。

Photo_4「気力に缺(か)くるなかりしか」

 この間、退役する将校の話を聞いた。彼は幹部になってから退役するまでの長い間、気力に欠けることは無かったという。若い頃は怖いほどの気合いだったが、40を超えた頃、自分はこのまま一生、充実した気力を緩めずに生きていけるのだろうかと不安になったという。でもついに退役の日までそれを続けることができた、それが彼の最大の誇りだと言っていた。俺も憾みなき人生を送りたい。

Photo_5「努力に憾(うら)みなかりしか」

 そう、俺の努力には憾み(うらみ)はないか?努力が十分ではなく、自分自身でそれを恥じることはなかったか?おれは今日も全力で訓練を受けたか?

Photo_6「不精に亘るなかりしか」

・・・パッピプップップー ブッ、プー パピープップップー!

 江田島で学ぶ海軍五省。
一、至誠に悖るなかりしか
一、言行に恥ずるなかりしか
一、気力に缺くるなかりしか
一、努力に憾みなかりしか 
一、不精に亘るなかりしか

 これを知った時の衝撃を忘れない。悖る(もとる)や缺くる(かくる)はどうやら読めたし意味もわかったが、「憾み」と「亘る」は読めなかった。漢和辞典を引き、読みを知り、意味を理解した。難しい五省だったが、それでも伝わるものがあった。

 なぜ、この五省が出来ないのだろうか?決意をすれば簡単である。人に誠を尽くし、自分の人生自体が誠実であることはこの世に生を受けた親の恩を考えれば容易である。言行に恥ずることをしないことも出来るし、気力を充実し、努力を重ね、不精にならないように注意することもそれほど難しいことではない。

 思えば、自分は小学校の頃、誠実だった。言行もしっかりしていたし、気力もあった。毎日、遅れずに学校に行き、勉強し、率先して手を挙げた。努力という意味でも不精でなかったと言う点でも自分でも満足できたと思う。でも今は・・・

 日本海軍のネイビースピリットにこうある。
「同じ航路も初航路」

 私は五省を唱える。呪文のように唱える。講義に出る時、講演に望む時、執筆に取り組む時、お酒を飲みに行く時、私はそれを唱える。

至誠に悖るなかりしか言行に恥ずるなかりしか気力に缺くるなかりしか努力に憾みなかりしか不精に亘るなかりしか

至誠に悖るなかりしか言行に恥ずるなかりしか気力に缺くるなかりしか努力に憾みなかりしか不精に亘るなかりしか

おわり