― 自分は自分の力で ―

 まず、収入と幸福の関係から・・・
 収入が増えると「幸福」になるか?という有名な調査が知られている。それによると収入と幸福とはほとんど関係ないことが明らかになっている。お金持ちは幸福ではないのである。

 次に、健康と幸福から・・・
 健康になり、寿命が長くなると不安が減るかというとそうではない。反対に、健康に注意し寿命が延びると不安が増加する。事実、日本人の20代の若者を対象にした調査では、1988年には5人に1人の若者が老後に不安を持っていたのに対して、18年後の2000年にはほとんど全員が不安を訴えている。

 1988年から2000年までの12年間で、日本の若者の収入は増え、余命も伸びたのに不安だけは増えていく。

 収入が無ければ気軽である。お金持ちになるとそれが無くなるのではないか、来年は収入が減るのではないかと悩む。あまりみんなが長生きするようになると病気になるのではないのかと不安になる。

そんなことはすでに2000年前にイエス・キリストが教えてくれている。
「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」
 人生というものを完璧に理解していたイエスは・・・・
 悲しくなければ幸いではない。貧しくなければ幸福にはなれない。病気でなければ健康を感謝することはできない。人間は「幸福であって幸福である」ことはできない存在である、と私たちに教えてくれる。

 私たちは時にお金が惜しくなって「キセル」をしたくなる。キセルというのは電車賃をごまかすことである。ごまかせるお金は200円程度のことが多い。でも200円で自分の魂を売って良いのだろうか?200円が無ければ電車に乗らなければ良い。

 イエス・キリストはこう諭す。
「心の清い人たちは幸いである。」

 私たちは時に「得をしよう」としてもがく。学生時代は友達のレポートを写し、長じては他人が考えついたことをあたかも自分のアイディアのように話す。待ち合わせの時間に遅れるとウソの言い訳をする・・・少しでも得をしよう、得をしようとして心を砕く。
 
 毎日、何とか得をしようともがく。少しでもよく見えるように、少しでもお金持ちに見えるようにと努力をする。でもそんな努力でどのくらい背伸びができるのだろう。それはほんの僅かなことだ。

 そしてそのほんの僅かなことを積み重ねて何を願うのだろうか?

 お金持ちは幸福ではない。体が丈夫な人は幸福ではない。名誉のある人は名誉を失うかとビクビクしていなければならない。だから、お金もいらず、健康はほどほど、そして名誉など不要なものだ。それらは普通に生活をしている内に運が良ければ向こうから来る。それで良い。得をしようともがく目標自体が無い。

 私はこれをお坊さんの「お布施方式」という。お経を上げに行くときに「いくらくれるか」と思ってはいけない。一所懸命、お経を上げてその結果包んでくれるものをありがたくいただいたもので良い。自然体で生き、それでからいただけるものをいただく。それでよい。誤魔化してもがく必要はないのだ。

 現代の日本では間違っても飢え死ぬことはない。

 春になると学生が就職に失敗して帰ってくる。次にはもっと不安になって研究室から出て行く。そんな時、私はこういって学生を励ます。
「自分の力で良いんだよ。それで落ちたら落ちたときのことだ。君は絶対に飢え死ぬことはないし、惨めになることもない。不安は判るが、自分は自分の力で良いんだ。」

 学生は気を取り直して出て行く。私自身にもできないことだが、私はそうしようと思う。

おわり