― ヌプケウシ紀行 オタエトウの岬 ―
オタエトウの大地は頻繁に地が鳴り、地面は波のように揺れる。阿寒・屈斜路と火山が連なり地面は揺れ、そして湯が沸く。地殻の変動は湯だけを深奥の暗闇から持ち出すのではない。地獄の底からわき出てきて大地を作るのはシリカばかりではない。
大地自身はシリカでできているが、マグマと共にあらゆる元素がわき出してくる・・・銅、鉄、マンガン、水銀、ヒ素、鉛、金、銀・・・それらの元素はマグマに沿って大地にわき出し、この地方の風土を作ってきた。そこに湯があり、湯の成分があり、そしてある時は健康を、ある時は疾病をもたらす。
エゾカンゾウの黄色、ピンクのハマナス、クロユリの濃紫・・アントシアニン、フラボン、そしてそれらの金属錯体が見事な色を醸し出す。どの金属がどの色を出しているのか、中には金属に関係のない色もあるが、かつて植物が昆虫を引き寄せる為に色を付けたとき、エゾではエゾの元素を利用した。
初夏の野付半島は花の絨毯から始まる。それ侍女の林、ナラワラまで続き、再び始まって魔女屋敷につながる。あるいは可憐に、あるいは妖しく咲いている花の絨毯はこの野付半島の魔女屋敷に至る玄関を飾っているようにも見える。
半島の奥には“ノッケウの魔女屋敷”が控えている。すでに生命力を失ったはずのトドマツの灰白色の肌、枯れて横たわっているトドマツですら妙にすべすべした肌をもち、不気味に敷き詰められた波打ち際の石畳と苔の奥に白い肌を晒した無数の枯トドマツが林立する。
このものたちは、すでに生命を失ってどのくらいの年月を経つのだろうか?どうしてこの極寒の厳しい風雨に晒されながらも朽ち果てずにすべすべした肌をしているのだろうか?あるいはトド原にその体を横たえている白い姿はまるで誘っているように見える。
トド原はどんなに陽光が明るく刺していても、どんなに心地よい浜風が吹いていようと、その一体だけは昼も薄暗く、そして闇の淵を覗くようである。
ここでもアルカリ泉で磨かれたのだろうか、その肌は決して獲物を離すことはない。そこに吸い寄せられた人々はノッケウの玄関を飾るあの花の絨毯はいったい何だったのかを知ることができるのである。ノッケウはその外側を花絨毯で飾り、トド原の周りには魔女にかしずく侍女たちがナラワラの屋敷から吸い寄せされていく者たちを横目で身ながらクスクスと嗤っているようだ。
ミズナラの林はちょうど半島の中程にあり、玄関の花絨毯を過ぎてしばらくしたら侍女たちの歓迎を受ける。そして奥座敷までのはまた花の回廊が続き、屋敷から無事に帰ってくると侍女たちが夕暮れの中でざわざわと噂をしているようにそよぐ。
ノッケウから西北に歩を進めると広い大地が続く暗く冷たい空間を通り過ぎる。なだらかな稜線と牧草地の外れに僅かな防風林が遠くに見える。森林地帯とは違い牧草地はのっぺらぼうで、白霧も西から侵入する海風も波打つ丘陵をなめるように過ぎていく。それがすべてのものを平らにしてしまう。初夏の陽光に照らされながら、別海の荒野はあくまでも暗い。
この地方は酪農と漁業で生きる。広い荒野に家畜を追い、そして家畜の飼料と排泄物がこの地を循環する。それはごく自然に営まれてきた。そのはずである。それ以外にこの地が地球上に存在する意味がない。まっすぐに東に延びる単調な道路の右に突然、円形のドーム数ヶからなる巨大な工場群が見える。
それは野付半島からその地に至るまで、そこここに見えるバンカーサイロやタワーサイロとは全く異質な物体である。すでにノッケウの魔女達にたぶらかされている私には、家畜の排泄物から水素を製造するその施設からは理論も、技術も、そして自然との調和の哲学も感じることはできなかった。
難解な理論なのだろうし、最新の技術だろう。学問的にはきわめて優れた物体の集合とは思うが、別海にはいらないものかも知れない。ここは初夏も暗い魔女屋敷の近く、僻地診療所の縄張りなのである。
この地で放牧している家畜の排泄物が自然の中に消え、自然の中で循環できないとすると、それはどういうことだろうか?臭気がするという、地下水が汚染されるという。魔女屋敷の高級な香水や侍女たちが使う枯れ果てた時代物の花粉と比べて家畜の排泄物はこの大地となじみ、そこに元素を供給するはずである。ここの生き物はこの大地から生まれる生物を食して生きる。
その生物の中に大地からわき出てきた元素があり、それが家畜の体内に移る。そして体の中でエネルギーをはき出したあと、排泄物となってまた大地に帰るのである。その臭気もその形態もともに帰路につく姿である。
大地から発し大地に帰るそのものたちの臭気がこの別海となじまないはずもなく、この地の地下水を汚染する道理もない。大地に帰るものたちを途中で道ばたに誘い込み、元素を分離し、水と化する。循環は破壊され、風土は変質していく。この大地から発することのないものを遠く異国から運搬してこの地の家畜に与える愚かなことも進んでいるという。異国から来たものはまた異国に返さなければならない。
別海は崩れつつある。数万年前から毎年同じ営みが繰り返され、この風土と命を守ってきた多くのものたちが、町営であり、科学であるものたちに狙われ、そして浸食されている。そう言えば、僻地診療所に接していた人工物の大人の遊び場もこの巨大な工場群と似て醜悪である。そこは遠くアラブから来たアスファルトで覆われ、土埃はない。ちょうど、町営アルカリ泉の奥にあるデザインされた露天風呂と同じだ。かつてテントを張り「天然の美」を古びたレコードで繰り返すサーカス小屋の中が姿を変えて出現したのだろう。
別海はすでに魅力を失いかけている。しばらくは野付半島の半ばに作られた土産物屋に、すっかりアスファルトで覆われた道路をまったくそぐわない時間の流れの中から飛び出してきた観光バスから甲高い笑い声を上げながら降り立つ客で賑わうだろう。彼らは土産を買い、団子を頬張り、記念撮影をし、枝を折り、そしてお金を落としていくだろう。が、やがて侍女たちは去り、魔女屋敷もそれを飾る花絨毯も失われ、無味乾燥とした大地に直らない精神病患者を相手に年老いた僻地診療所の医師が目を擦っているだろう。
オタエトウは死にかけている。
おわり