― 結婚式の二時間前 ―

 

 その日は結婚式だった。名古屋の中部国際空港を昼に発ち、福岡国際空港へ僅かな空の旅をして博多に着いたのは昼過ぎだった。結婚式は3時からだから、まだ大分時間はある。空は晴れて観光には願ってもない日和である。

 若い頃だったら、ついでにあそこにも行きたい、ここにも行きたいというところばかりだったが、もう博多も30回を超えるだろう。見たいところは何回も行っている。私は空港から地下鉄に乗って中洲川端で乗り換えて、まっすぐ箱崎宮前で降りた。

 昔は「筥崎宮」という難しい字を使っていたが、いつの間にか簡単な字に変わっていた。今日の結婚式は、その箱崎宮の中の会館、ブライダル清明殿であり、そこに行くのが目的である。「敵国降伏」の金文字のある門をくぐって会場に着くと、まだ早いので受付の準備をしているところだった。

 家族の人に挨拶をし、受付の人に「結婚式は親族の方だけですか?」と聞くと「そうだ」という。私はしばらく椅子に腰をかけて息を整えた後、カメラをぶら下げて境内に出た。

 その日はちょうど七五三だったので境内は晴れ着を着た子供たちで、ことのほか賑わっていた。大変に有名な神社のわりには現在の境内はそれほど大きくはなく、それなりに歴史を感じさせる空間をもっている。私は深呼吸をし、玉砂利を踏みしめ、空を仰ぎ、写真を撮った。

 教え子の結婚式だから主賓としての挨拶を求められるだろう。私はぶらぶらと境内を歩きながら祝辞の構想を練った。教え子がこのような良い場所で結婚式を挙げてくれたものだから、私もそれにあやかり、初冬の気持ちの良い午後のひとときを過ごすことができた。

 その日の祝辞は自分でも満足のいくものであったし、列席者も良く聞いてくれた。祝辞を終わって席に着き、純日本風のお料理に箸をつけ、教え子と懐かしい話をしながらお酒を飲んだ。

 さて、私は結婚式に出るときには式や披露宴の二時間前に会場に着く。あまりに早いので時によっては新郎新婦のご両親が心配してくれるが、私はその心遣いを丁寧に断ることにしている。二時間前に到着するのは私の主義であり、勝手だからである。

 実は私は結婚式だけではなく、講演会でも会合でも二時間前、どんなに遅くても一時間前には着く。飛行場などには三時間前に行くこともある。なぜ、「そんなに早く行くのですか?」と聞かれることが多い。なんといっても私の日常は忙しく、それこそ分秒を争うことがあるのに、不釣り合いではないかと感じるのは誰もが同じである。

 それに講演に呼ばれたときなど、私が到着する時間がわかると相手の方が出迎えてくれる。忙しいのに私の主義で二時間も同行してくれるのは申し訳ない。そんな時には私の到着時間を隠すのは一苦労である。

 そんなにまでして私が二時間前に行く、第一の理由は「万が一、遅れると迷惑をかける」ということである。大人というもの、電車が遅れたとか、途中で腹が痛くなったなどの言い訳はしたくない。言い訳をしても結婚式は時間通り始まり、講演会では出席者を待たせる。「すみません」といったら時間が戻るわけでもない。

 でも、私が二時間前に行く本当の理由は、第二の理由の方にある。

 私たちの人生の時間、つまり寿命は運命が決める。健康に気をつけることなど、少しは自分で努力することができるし、誰でも長く生きたいと願っているのに、人によって人生の時間は違う。良い人が早めに他界し、可愛い子供が夭折する。だから寿命は運命というものだと私は思う。

運命だから寿命は仕方がないが、「運命で決まる時間」の方を大切に使うことがはできるだろうか?

 時間は誰にでも同じく過ぎていく。お金持ちだからといって時間をゆっくりにすることもできず、性別、国籍、年齢にもよらない。万人平等である。大切なことをしていても、無駄な時間でも過ぎる早さは同じである。

 そう、「時間」というのは自分がどこにいても、何をしていても同じように過ぎる。そこに時間を大切にする鍵があるように私は思う。

 結婚式の日。私は午前9時に家を出た。そして結婚式場に二時間前に着いた。もし私が家を11時にでると結婚式には滑り込むことになる。その違いは家で二時間を過ごすか、箱崎宮での二時間を選択するかの問題であり、箱崎宮に二時間前に着くから、それがそのまま無駄になるわけではない。

 家にいる二時間も大切だが、久しぶりに箱崎宮に来て、初冬の午後をこの境内で過ごす二時間もまた私の人生の時間としては甲乙をつけがたい。無理してどちらの時間が良かったかと問われれば私は箱崎宮の二時間と答えるだろう。

 「特急」と「鈍行」に乗ると特急の方が先に目的地に着く。先に着いたからと行ってそれだけ「時間が節約できた」というわけではない。特急に乗るとそれだけ家を出る時間が遅くなるか、到着が早くなる。でも鈍行に乗ると少しだけ長く「旅」を楽しむことができる。だから、旅の時間が大切な人は鈍行の方が「時間を節約した」ということになる。

 すでに100年前、「早く目的地に着くことが良いことだという20世紀の価値観は、後の世には理解されないだろう」と、かの文豪トルストイが言っている。

 結婚式開始まで二時間。その時間の余裕が、私の行動の品格を高め、国際空港の息づかいを感じることができ、箱崎宮の境内を散策できる。もし私がぎりぎりの時間を選択したなら、私は名古屋から箱崎宮まで時計とにらめっこをし、汗をかきながら到着したことだろう。そしてその間の時間はまったく私の人生から除かれるはずである。

おわり