―人生の目的を考えると―
・・・悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを値するものぞ。 萬有の真相は唯一言にして悉す。曰く「不可解」。我この恨を懐て煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に通ずるを・・・
この難しい文章は「人生不可解」と一言を残して明治36年5月22日、16歳で日光の華厳の滝に身を投げて自らの命を絶った第一高等学校生、藤村操の時世である。4年後の明治40年までに藤本操に共感して華厳滝で自殺を図った若者は185人に上った。
人生とはかくのごとく難しいものであり、人生そのものが多くの人の悩みでもある。でも、すでにこの若い「藤本 操」のことはこのホームページでも書いたので、ここでは少し別の視点でより広く、深く考えてみたい。
18世紀半ば、イングランドでキリスト教の信仰をより深めようという非常にまじめな運動が起こった。その中心的な人物はイングランド国教会司祭のジョン・ウェスリーという人で、敬虔で清廉潔白、厳格に禁酒・禁煙を守り、社会奉仕の活動を行う「理想的な運動」だった。この運動はそもそもが正しいので今でもメソジストという名前で呼ばれている。
でも、この強い信念をもった禁欲的な指導者ジョン・ウェスリーでもある時、次のように言っている。
「私は気づかっているのだが、富の増加したところでは、それに比例して宗教の実質が減少しているように思う。・・・宗教は必然的に勤労と節約を生むほかなく、この二つは富をもたらすほかはない。富が増加するとともに高慢、激情、そしてあらゆる形での現世への愛着も増してくる。・・・人々が勤勉であり、質素であるのを妨げるべきではない。・・・できる限り利得するとともに、できる限り節約すること、すなわち、結果において富裕になることを勧めなければならない。(故 生松敬三先生訳)」
さすが偉い人だけに正直だ。一所懸命、働くことは良いことだ。でも、一所懸命働くと富が増える。富が増えると宗教がすたれる。富を得ると高慢になり、激情に身を任せるようになり、ますますこの世に未練が生じる。
富を得ると人間がダメになることは現代の実業界の偉い人を見るとすぐ納得できる。彼らはいつも高慢で怒りっぽく、地位を失うのを怖がっている。
でも勤勉で質素な生活をすると富裕になり、富裕になれば高慢になり、怒りっぽくなり、そして信心を失うのは“一本道”であるから避けようがない。ウェスリーは司祭として教会で「勤勉で質素であれ」と説けば、それは「高慢になって信心する心を失え」と説教していることになる。
そこに彼の深い悩みがあった。どう考えても矛盾している。どうしてもその矛盾から逃れることはできない。「勤勉と質素」は正しい。でもその正しいことを信者がすると最終的な目的である信心する心を失う・・・
このことを藤村操が知っていれば良かった。そうすれば多くの人の命が助かったかも知れない。
人生には毎日、毎日の生活がある。でも何の目的も持たずに毎日の生活を送るのは辛い。だんだん、気力が無くなって生きていくのがイヤになってくる。だから充実した生活を送るためには人生に目的を持つべきだ、と多くの人は考えている。
「・・・になりたい」という希望があれば人生を張り切って生きることができると言われる。でもそれは真実ではない。
この世で起こることは「目的に沿って「正しいこと」をすると、目的から外れていく」という特徴がある。「そんな馬鹿なことはない!そんなことはおかしい!」と言っても事実だから仕方がない。
人生の目的は“長生き”、“お金持ち”、そして“社会的な名誉”であるとほとんどの人が錯覚している。それは実は「目的」ではなく、毎日の行為の「結果」である。もちろん「結果」は「目的」ではない。
宗教の目的は、人に優しくしたり、勤勉に暮らしたり、節約することではない。神に祈り、神を敬い、信心することも目的ではなく、それも行為である。一心に神に祈り、神を敬っていると、結果として人に優しくなったり、勤勉になったりするという順序である。
人生も宗教も、そして環境も「目的」があるのではなく、私たちが「目的」と言っているものは、実は「向こうから来るもの」であり、私たちが目的にできるのは「行為」である。
私は本を読んだり、実験データを解析したり、文章を書いたりするのが好きだ。それらが自分の人生に対してどんな影響があるかなどはあまり考えないことにしている。「おおよそ良い方向」ということがわかっていれば具体的にどのようになるかは成り行きで決まる。
お金を儲けよう、健康になろう、成績を良くしよう、人によく思われたい、幸福な人生を送りたい・・・そう思うと失敗する。目標を置いてやる行為は反対の結果になるからである。
今日やること、自分がしたいもの、他人に迷惑をかけないもの、それに献身するだけでよい。英語では“デディケーション”という。結果を考えてはいけない。
見事な工芸品を作る職人に次のように聞いたとしよう。
「あなたは、なぜ作品に命をかけるのですか?」
その職人は次のように答えるだろう。
「作品を作るからです。」
山登りの好きな人に聞いたとしよう。
「あなたは、なぜ山に登るのですか?」
山登りの答えは昔から決まっている。
「そこに山があるからだ。」
幸福に楽しく人生を送っている人に聞いて見る。
「どうしたら、楽しく人生を送れるのですか?」
答えは次の通り。
「毎日、朝が来るから・・・」
おわり