―大海に漕ぎ出す時―


 イギリスのオックスフォード大学・ボードライアン図書館にニュートンが描いたスケッチが残っている。そのうちの一枚がこれである。窓から射しこむ太陽の光をレンズで平行にしてプリズムに当てる。そうすると太陽の光が分かれて七色になる。

 赤橙黄緑青藍紫・・・虹の色、七色の光。

 太陽の光は透明に見える。何の色も付いていないので白色光とも呼ぶけれど、少し違和感がある。白という色にもついていないような感じだ。そして明るい。その透明な太陽の光をプリズムに当てると七色に分かれる。

 太陽の光が一つの光ではなく、色の付いた光が混じり合ったものだということがわかった瞬間である。今では、虹の色が七色、三原色もあり、光を分けること(分光)ということも当たり前になっている。

 ニュートンはおおよそ今から300年ほど前の人だから、300年も前に発見されたのか!と驚く人もいると思うが、人類が500万年以上前から誕生したこと、現代人が活躍しだしてから1万年にもなることを考えると、ごく最近、わかったこととも言える。

 突然の驟雨がさっとあがり、たちまちに空が開けて太陽の光が地表にさしこむと、大空に見事な虹が橋を架ける。そんな時、人は精霊の存在を感じ、そして小さな花に水をさっとかけた時に虹の子供が自分の足下にじゃれる。人は七色の光をそのように感じてきた。

 ニュートンは科学者として偉大でもあり、激しい性格で名誉欲も強く、いわば問題児でもあった。そんな彼だから時代を拓くことができたのだろうが、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見したり、微分方程式を考案して数学者と先陣争いをしたり、力、光などこの世を支配する多くの物理的原理を明らかにした功績は大きい。

 ニュートンが太陽の光が七色であることを知り、ものが落ちるのは土の中から悪魔が引っ張っているのではなく、万有引力というものであることを発見した時、どのような興奮が彼を包んだことだろうか。

 新しい科学の発見は常に素朴で原理的だった。自然をじっくりと観察し、虫眼鏡や望遠鏡、ピンセット、天秤が彼らの道具だったし、それで偉大な発見をするには十分だったのである。

 今や、ニュートリノという素粒子を観測するだけで膨大な資金、大規模な地下観測施設、そして組織化され歯車となった研究者の一群がなければならない。それは到底、多くの理科好きの青年が夢を抱くことができないものだ。

 ニュートンはその代表的な著書、「プリンキピア」(1687)の中で、
「我々の目の前には未知の大海が広がっている。船に帆をかけそこに乗り出すのだ」
と言っている。でもその大海は300年間の科学者の興味と努力によってその多くが解明されてしまった。

 現代の多くの科学は大海を旅しているのではない。大海は隅々まで探検され、既に新しく見出すところはない。だから岩の裏のよどみを丹念に調べる。確かに新しいことは新しいがなにか無理がある。ニュートン以来、10年を置かず次々と新しい発見を提供してきた自然は1953年以来、沈黙を守り続けている。異様な長さである。

 もちろん、我々は未だに未知だらけであるから、自然を解明するテーマはつきない。あるいは今、私たちが考えている宇宙というのがまったく間違っているかも知れない。でも当面、私たちは普通に観測できる方法では興味を満足することができなくなっている。

 そういえば、絵画もダヴィンチ、レンブランド、ミレー、ルノアール、マチス、そしてピカソと多くの巨匠が出てシャガールあたりで終わりになった。音楽もバッハから始まり、モーツアルト、ベートーベン、ショパン・・・と続き、これも12音階が出て終わりとなる。日本の小説家も夏目漱石、島崎藤村、芥川龍之介ときら星のように並び、川端康成あたりが最後だろうか?松尾芭蕉、松岡子規も遠い人になった。

 資源が枯渇しているという。それは私たちの祖父、父、そして私たちが資源を使ったから、次の世代に残すものが少なくなったという。でもそれは物質だけのことではないらしい。自然を解明して心ときめく瞬間を楽しむ権利、忠実な写実の絵を描いて評判をとる権利、素朴な音楽を作曲できれば尊敬される権利、そして心に響く小説を書く権利・・・すべては失われつつある。

 時代を追って絵画を鑑賞すると面白い。ルネッサンスの初期、人間というものを再発見して素直にその素晴らしさが描かれる。しばらく立つとその内面まで描こうとし始め、やがて光りの当たり方を工夫したり、筆の使い方にひと工夫する。

 同じ題材を同じタッチで描いたのでは新鮮味もないし自分を主張することもできない。そして徐々に絵は抽象化し大衆にはわからなくなり、次第に没落する。19世紀の中盤には見事な裸婦の絵に「泉」という題が付けられたが、近代絵画がその終焉を迎える少し前、20世紀初頭には、便器の絵に「泉」という名前が付いた。それも名作に数えられている。

 世界の地域によって年代は異なるが、中世以降約1000年の眠りについた人類は近代の激しい活動期を経て、消耗し尽くし、次の目標を見出そうとしばしの休みに入ろうとしている。そのような時代背景を理解し、深く省察して「理科離れ」の話をしたいものである。

おわり