― してはいけない ―

 日本という国は実に素晴らしい国である。まさに山紫水明、四季折々、春の桜、秋の紅葉・・・これほど素晴らしい国は世界広しといえども日本だけである。

 日本の紅葉が飛び抜けて美しいのは紅葉する樹木の種類が30種類近くあるからで、ヨーロッパの紅葉も美しいことは美しいが少し単調である。ヨーロッパで紅葉する樹木の種類は数種類に限定されることによっている。

 私は、アメリカ、ヨーロッパはビジネスや学会で行くことが多かった。アジアの韓国、中国、そして台湾なども同じような理由で旅行した。

 そして大学を視察したり、文化的行事でハワイ、ベトナム、マレーシア、タイ、シンガポール、インドネシア、トルコなどにも足を伸ばした。

 でも日本と同じ程度に素晴らしい国や地方は、単に気候だけならハワイ島、人柄ならバンドン、日本贔屓ならアンカラ、そして芸術ならパリなどがあるが、気候も人柄も人なつっこさも、そして文化も共に優れている国は日本だけだ。いや、少し前の日本だけである。

 人口10万人あたりの殺人件数を見ると、アメリカの7%、イギリス3%、ドイツとフランスが共に4%、そして日本が1%である。アメリカの殺人件数が多いのは知られているが、検挙数はアメリカが一年18,000件で、率として66%。それに対して日本は1,300人で95%の検挙率を誇っている。

 日本は犯罪の少ない国である。少なくとも最近までそうだった。私は一時、自動販売機の材料の研究をしたことがあったが、あれほど無防備な自動販売機があちこちにあるのは日本だけだ。

 江戸時代の終わりに多くの外国人が日本に来て、この世界のはずれにあるニッポンという国をつぶさに見た。そしてその感想を多く残している。その中に貝塚で有名なモースが「日本の住まい」という著述の中に次のような一節を残している。

「鍵を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りをしても、触っていけないものは決して手を触れぬ。」

 ここに書かれた子どもや召使いは「貧乏で食事も十分にとれない人」ということが暗黙の前提になっている。そしてそのような人ですら、日本人は人の物を盗むということをしない。「触れていけないものは触れない」のが日本の文化なのである。

 江戸時代に日本に来た旅行者は最初、日本の野蛮な国と思う。それは道ばたで婦人が湯浴みをしているからである。そのような文化を持つ国は未開に違いないと彼らは思う。

 しかししばらくして彼らの考えは変化する。どうもよく見ると日本はかなり高い文化を持っている。浄瑠璃や歌舞伎ばかりではなく、上は武士から下は商人まで決して野蛮ではない。それなのになぜご婦人が白昼に裸を見せるのだろう?

 ヨーロッパ人の疑問が解けるのにはそれほど時間は経たなかった。それはモースがお金で感じた物と同じこと・・・日本人は見ていけないものは見ない・・・という道徳だったのである。

 人間の心の中にある罪を犯したいという欲求、それをヨーロッパは法律でコントロールした。そしてそれ以外に人間の欲望を制御し、社会がある秩序をもって運営されることはないと確信していた。それはバビロニアのハンムラビ法典以来の確信だった。

 ところが日本は違う。日本だけが違い、東洋諸民族とも際だって違うことを多くの旅行者が指摘している。触れていけないものは触れない、見ていけないものは見ない、していけないことはしない・・・すべてやってはいけないことは法律があるかないかという問題ではなく、やらないのである。

 そしてもし罪を犯してお上に捕らえられ、お白州に引き出されることがあれば、それは天命である。素直に「おそれいりました」と白状する、それが日本の文化だった。

 明治になってヨーロッパの邪悪な文化が侵入してきた。そして舶来の学問を振りかざす学者が「裁判では自分が悪いといってはいけない」とつまらない異国の文化を持ち込む。おかげで日本はずいぶんとその優れた文化を捨ててきた。
 
 もう一度、思い出したい・・・してはいけないことはしない・・・

 そして最後に、これも幕末のアメリカ駐日大使、ハリスが1957年に残したメモを示したい。

「私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所為であるかどうか、疑わしくなる。・・・生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」

 私は「ドイツがこうだ」「アメリカがそうだ」というのには従いたくない。日本は日本で行く。

おわり