小豆島の小学校を舞台にした、壺井 栄原作、木下恵介監督、高峰秀子主演の「二十四の瞳」。これほど詩情豊かで社会の残酷さを鋭く描写した映画は少ない。
太平洋戦争前夜、日本の植民地化を防いだ軍部はさらに戦線を拡大し、社会もそれを望んだ。なぜ、社会は戦線拡大を望んだのだろうか?戦いに多くの犠牲を伴うのは判っていたはずであるし、統制的な雰囲気はあったが選挙権は有効だった。国民が反対なら軍部の独走は防ぐことができたはずである。
一つの原因はマスコミ報道にあっただろう。新聞社も基本的には戦争に賛成だったのである。もともとマスコミは社会の平均的考えに追従する必要があるので、社会が戦争賛成ならどうしてもその方向に進むが、社会に小さな動きがあった時代にマスコミがそれを応援すると、雪だるまのように時代が流れる。
このような中で、「戦争賛美」の雰囲気が生まれた。戦争から60年、平和が第一とされる現代、戦争が賛美されるということ自体、信じられないが、事実であった。
映画では高峰秀子の扮する小学校の先生は教え子が戦争に出征するのを哀しい思いで見送る。「なんでそんなに戦争が良いの?」と兵隊さんに憧れる男子児童につぶやく場面は印象的だ。
そして戦争が終わり、彼女の教え子の多くが戦争の犠牲になる。彼女は「泣きみそ先生」とあだなをつけられ、死んだ教え子のことを思って泣く。
あの純粋は男子児童はなぜ、死んだのだろう。それが日露戦争なら日本国を守る戦いに出征するのだから、同じ戦争でも意味のある死とも言えるだろう。が、太平洋戦争はすでに変質していた。軍部や産業界の利得と深く関係していたのはすでに明らかである。
でも高峰秀子が戦争に反対の気配を見せるとたちまち「怪しい教師」ということで教育委員会のお偉方から目をつけられる。異論や反対の許されない世界であった。
私は今の日本を考えると、「二十四の瞳」を思い出す。昔は「軍事統制」であったが、今はそれが「経済統制」に変わっただけのような気がするからである。それに加えて、最近の自衛隊のイラク派兵では軍事に関する言論の自由も怪しくなって来た。
私の親しい、立派な先生がつい最近、私にこう言われた。
「先生、これまで何回も研究資金を申請したのですが、まったく通らなかった。でも同じ内容のものを「リサイクルを推進するため」という理由に替えたら、一度で通りました。すごいものですね」
戦前、学問の自由は失われた。歴史も天皇に批判的になる事実の研究は禁止され、工学も軍事研究が優先した。欧米の社会を正しく解説することも、日本の将来を論じることも禁止された。
今、学問の自由が守られていると言われるが、事実は「憲兵隊の監獄」が「研究費の日干し」に変わったに過ぎない。国が決める研究方向に反すればたちまち研究費は枯渇し、研究はお手上げになる。
私は、循環型社会は地球環境を破壊し、将来数十億人に上る餓死者を出すと予想している。だから何とか循環型社会ではない方向を探ろうとしている。でもまったく研究費がでない。
私は、ダイオキシンは毒性が弱いと思っている。それよりリサイクルで回ってくる有害物質が社会を汚すと心配しているが、その研究は資金を獲得できないでいる。
私は、地球温暖化は二酸化炭素が原因しているとは限らず、もっと自然のことを全体的に見なければならないと思っている。でもそのような活動には資金はでない。
私は「みんなで監視しあうリサイクル」より、「犯罪が少なく、心理的なストレスの少ない社会」の方が環境に良いと思っているが、研究は理解されない。
「二十四の瞳」の先生は、社会の幻想に影響された幼い教え子が戦場で無駄に散っていくのに耐えられなかった。私は、社会の幻想に影響されて幼い小学生がリサイクルにいそしみ、日本文化の破滅の方向に進んでいるのに耐えられない。
第二次世界大戦では全世界で6000万人が犠牲になったとされるが、資源の枯渇による環境の破壊は、資源獲得戦争や餓死を含めて20億人規模の犠牲が予想されている。
社会は目先の利得によって動く大人の為に子どもを犠牲にすることを避けられないのだろうか?私たちは自らの専門性を学問的良心で守ることはできないのだろうか?
「二十四の瞳」で兵隊さんに憧れる男の子が目を輝かして「兵隊さんになるっ!」と言っていたシーンを忘れられない。私の前で「僕、リサイクルしてるっ!」と紅潮した頬で言う小学生に会うと私は深い絶望を感じる。
今こそ、日本の子どもたちの為に、純真な少年の為に、立ち上がって欲しい。
おわり