― 教育基本法第一条 ―
2006年12月15日、「改正教育基本法」が参院本会議で賛成多数で可決、成立した。教育基本法の改正は1947年の制定以来60年間にわたり日本の教育の基本を定めていたが、それに対して「公共の精神」の重要性を強調、教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことなどを入れたと言う。
私は教育現場にいながら、改正される内容も「改正教育基本法」というものの条文も知らない。大学からは連絡が無いし、ネットで調べても出てこない。日本は民主主義ではないから、国民や教育を担当している人が主人ではないので、情報が無いのも当たり前だが、異常でもある。
そこでここでは、改正される前の教育基本法第一条で話を進めたい。
第一条 (教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
私は教育に携わるようになって以来、常に教育基本法第一条に忠実な教育をするように心がけてきた。
人格を完成し、正義を愛し、勤労を重んじ、自主的で相手の価値を尊ぶような教育をしなければならない・・・そう思って教育に当たってきた。これほど崇高な教育をするのだから、自分自身の身は捨てなければならないとも思っていた。私の教育のことを「全身全霊」と表現した先生がおられたが、あまりに一生懸命だったので、学生には迷惑だったかも知れない。
講義に15分も遅れると私は学生に「教室の後ろで立って聞くように」と言う。それだけでは学生がその意味を理解しないので、講義の最初に大学院生にお願いして同席して貰い、その立たせた学生に理由を説明させる。
「講義というのは先生と学生の約束事なのだよ。君も誰か友達と待ち合わせをすることがあるだろう。そんな時15分も遅れて良いのだろうか?難しい学問ができても他人との約束を守れないような人間は立派とは言えない。」
と説明させる。
また遅れてきた学生が講義室に入る時の態度がすごい。
教室の前のドアーを乱暴に開け、大きな靴音を響かせて空いている机を捜し、ドサッと鞄を置くとドスンと腰を下ろす。そんな状態なのだ。「公衆道徳」というのを教えられることが無く、何でも自分の思う通りにやって良いと高等学校まで教えられてきた結果なのだ。可愛そうに・・・・
私は講義中に私語をする学生を外に出す。その時には私が説明する。
「この講義は私の為にやっているのではなく、君の為だ。もし聞きたくなければ聞きたい人の迷惑になるから教室から出るように」
「歩行禁煙」と言う張り紙が貼ってある大学の廊下で歩きながら喫煙している学生がいる。私が呼び止めて注意すると10人に8人は「すみません」と言って喫煙を止めるが、2人は反抗する。
「何で注意するのか!」
と言うので、
「ここは教育機関だ。だから私は教官として注意をする。注意されるのがイヤなら退学しなさい。私も君が大学の外で喫煙していても注意しないだろう。」
と答える。
でも、こんな教師生活を送ってきて空しい思いをすることも多い。それは、
「本当に日本の学校は教育基本法を守っているのだろうか?」
という疑いの心が出てくるからである。
教育基本法を改正する必要があるという。でも、私はその前に、
「教育基本法が守られたことがあるのか?」
と聞きたい。
教育基本法の改正について都道府県の教育長が異議を申し立てていた。その異議とは「人事とか管理が上からになる・・・」というようなものだったが、これまで教育基本法が守られていなかったことについては一言も無かった。教育はまず内容だ。
私は教育基本法を改正する必要は無いと思う。なぜなら、日本の教育は教育基本法を守ったことが無いからである。今、問題になっているイジメとか学力低下という現象は「学校が教育基本法を守らなかったから」であり、教育基本法が不十分であるからではない。
イジメは「個人の価値をたつとび」というところで先生が頑張れば良い。学力低下なら「真理と正義を愛し、勤労と責任を重んじ」とあるからこれも大丈夫である。愛国心や公衆道徳なら「平和的な国家及び社会の形成者として」で十分であり、自立していない登校拒否児童なら「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」がある。
先生という職業は「聖職」である。なにがなんでも聖職である。そうでなければ「人間の人格」という崇高なことを教育することはできない。サラリーマン教師、就労時間を気にする教師が、他人の人格を教育することは出来ない。
私は教育基本法の改正には関心が無い。それより教育基本法が守られる教育現場で働きたい。そして、今度の教育基本法の改正の大きな問題点は、それが教育現場で議論されていないことである。
おわり