―姉歯マンション事件と国家の意味―
大昔のこと。サルから進化した「ヒト」が徐々にその数を増やし、集団になった頃のことである。まだ「国」は出来ていなかったが、「村」は出来てきた。村の中には大きく力のある村もあり、暴れ者も現れ、平和な生活が突如として悲惨な状態になることがあった。
ある時に村の衆が集まって、その村の長老のところにお願いに行った。
「旦那さん。今まで何かというと旦那さんにご相談したり、お世話になってきました。わっしらはずっと感謝しております。でも、今日はまたお願いに参りました。」
と村の衆の代表が口火を切る。
「旦那さん、わっしらの村も大きくなった。畑からは作物がとれ、川からは魚にも恵まれています。何の不自由なく過ごしていますが、ただ一つ困ることがあります。それはどこからか盗賊が襲ってきて一家皆殺しに遭うことです。そんなことは滅多には無いのですが、一生に一度あってもそれでわっしらの生活は台無しになります。」
「そこで、お願いですが、旦那さんが殿様になっていただいて、わっしらの命を守ってもらいたいのです。お願いします。これはわっしらが相談してみんな、そうして欲しいと言っております。」
頼まれた長老はしばらく考えていたが、やがて口を開いてこう言った。
「わかった。でも、おまえらは考え違いをしていないか?儂が殿様になっても儂が一人で戦うことはできん。おまえらの息子を兵隊に取らなければならないし、その息子は戦いで死ぬ。それでもよいか?」
村の衆はわいわいと声をあげて相談し、「わっしらの息子が戦いで死んでもかまいません。お願いします。」と言う。長老はさらに念を押す。
「おまえらは考え違いをしていないか?儂が殿様になれば、儂も贅沢になり、おまえらの娘を取り上げて後宮に入れ、官僚をやとって税金を取り上げることになるぞ。それでもよいか?」
また村の衆はわいわいと声を上げて相談し、「旦那様。わっしらの娘を取り上げられても、税金を取られても、盗賊に襲われて一家皆殺しに遭うよりましです。お願いします。」と言う。旦那はやっと腰をあげて国を作り、王になった。これが国家の始まりである。
息子を失っても娘を取られても、一家を守って欲しい。盗賊が外から来ても国家に責任が無くても守って欲しいと村民は期待したのである。
それからというもの、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマ・・・と国家はだんだん大きくなり、最初の約束通り、戦争をし、王宮を作り、そして官僚が税金を取るようになった。時代が変わり、王政から民主主義になったけれど、今でも最初の約束は変わっていない。
もともと戦争もなく、災害も無く、盗賊もいなければ国家というものは必要がない。何かお互いに協力することがあればそのときに話し合えば済むことである。でも戦争や災害が有り、盗賊がいるので、国家は国民を守る、そのために国があり、首相が首相官邸に住み、官僚が霞ヶ関にいる。みんな国民の委託であり、彼らが勝手にいるわけではない。
世界が成熟し、国家同士の戦争の危険が少なくなくなってきた時に、国家は何を期待されているのだろうか?少し前までは「スエズ運河」を作ったり、「日本列島改造」のように国土全体を改造するようなこともあったが、今ではそれも少なくなった。
これからは国家は
「社会が複雑になっていることで起こる悲惨な事件から個人を救うこと」
が主たる役目になるだろう。「国家のはじまり」と「現代社会」をこのように考えてみると姉歯事件に対して政府がどうしなければならないかは、はっきりしてくる。
それは、
「複雑な社会の中で、突然、善良な国民が災害に遭わないようにすることと、万が一、遭ったときには国民を救うこと」
である。それができなければ国家はいらない。
姉歯マンション事件で政府がとるべき態度は決まっている。それは善良なマンション購入者を救うことだ。「建築物の売買は原則として私的取引である」などとつまらないことを言ってはいけない。この問題は国家存立の基本問題であり、国家が成立していることを前提とした細かい建築関係の法律の議論とは次元が異なるのである。
かつて「水銀」が原因となった水俣病があった。工場から排出される水銀で、数千人を超える人が犠牲になる大きな公害事件だった。このことを少し考えてみたい。
まず、国家が作られた時の盗賊の被害と、水銀の水俣病の被害とを、「被害を受けた人」から見ると、どこが違うのであろうか?
盗賊は人間だが、水銀は元素である。盗賊は法律とは関係なく襲ってくるが、工場は法律に則って運転される。でも、それは社会システムや原因であって、被害を受ける人から見ると違いはない。
たとえば、盗賊に襲われて一家の命や財産を奪われても、盗賊にその弁償をしてもらうことはできない。それと同じように水銀で命を落としたり一家が悲惨なことになっても、原因となった水銀や会社が保証してくれるわけでもない。
被害者にとってみれば盗賊も水銀も、「善良な生活をしているのに突然、襲ってくる悲劇」であることには代わりはないのであり、それを救ってくれるからこそ国家の存在意義があるのだ。だから、姉歯事件の場合、ヒューザー、木村建設などを糾弾するのは政府であって、マンションの住民ではない。政府はこのように発言するべきである。
「マンションの皆さん。あなた方の生活は国家が守ります。それと平行して悪い人たちを処罰したり、そこからお金を回収したりすることも国家がしますが、それとあなた方のこととは切り離しますので安心してください。」
結論は単純だが、この事件は現代の国家の役割に対して深い示唆を与える。マンションの人は全力で救うことにして、私たちはこの際、日本の国を「本当に国民を守る国」に再生したいものである。つまり、
「国家は日常的なことにあまり口を出すのではなく、国民が悲惨な状態にならないように万全の注意をし、かつ仮に悲惨な状態になった場合、犯人捜しをするのではなく、国が主体的に国民を守る。」
という方針に転換することである。
水俣病の時もそうであったが、国家は自らの非を認めることに躊躇する。だから、
「工場の運転を認可したのは、安全だと言うから認可したにすぎない。悪いのは工場を運転した方だ。」
という理屈になる。でも、国民は国家が認可制度を持っていれば、国家が認可制度ということを通じて国民を守ってくれると思っている。
ところが事件が起こり、被害者がでると、国は「私には責任はない。当事者同士でどうぞ。」と言う。これを防ぐためには
「国は自分に責任が無くても、国民を悲惨な状態から救わなければならない」
という大原則を決めることである。盗賊に襲われた国民を救うのが国の役割であり、盗賊を罰することだけが国の責任ではない。また盗賊がやった行為は国に責任はないが、責任と国が国民を守るのは別のことである。
まして「盗賊に襲われたのは家の守りが悪かっただけだ。盗賊の責任を国家が負うべきではない」というなら、国家はやめて欲しい。 姉歯事件・・・これこそ国が何をすれば良いのか分からないことを示しており、このような国をもった日本国民は悲しい。
おわり