文部省と政府

 首相の諮問機関に科学技術総合会議ができて、科学技術の振興を国の政策として進めるようになった。また中央教育審議会があって長期的な教育を論じている。このことは一見して学問や教育を重視し、より文化的に優れた大学や小中学校・高校を作り出すのにはよいと思われるが、本当にそうだろうか?

 平成17年1月26日に「我が国の高等教育の将来像」として中央教育審議会が出した基本的考え方は、
「人々の知的活動・創造力が最大の資源である我が国にとって,優れた人材の養成と科学技術の振興は不可欠であり,高等教育の危機は社会の危機でもある。我が国社会が活力ある発展を続けるためには,高等教育を時代の牽(けん)引車として社会の負託に十分にこたえるものへと変革し,社会の側がこれを積極的に支援するという双方向の関係の構築が不可欠である。」
とある。

 内容としてはそれほど違和感はないが、教育機関があまりにも国家の為に存在する雰囲気が感じられる。ここではそれを少し広い視野で考えてみたい。

 私は高峰秀子主演の「二十四の瞳」という映画が特別に好きだ。木下恵介作品らしく舞台となった小豆島の美しい情景がスクリーン一杯に広がり、そこから響く子どもの声が何とも素晴らしい。

 この詩情あふれる作品は小学校の教育、教師と教え子の師弟愛などが描かれているが、そのそこに流れるのは平和を愛する心だ。主演の高峰秀子は繰り返し「なせ、戦争がそんなに良いの?」と男の子に聞くのだが、すでに政府やマスコミの影響で洗脳されている小学生は、先生の言うことは判らない。

「僕は兵隊さんになるっ!」

 先生を監視する教育委員会は高峰秀子演じる先生が戦争に批判的であるという理由で行動を監視して注意する。国家総動員なのだから教育もそれに合わせてやるのが当然だ、という論理である。この論理は一応、正しいように感じられる。子どもたちのすぐ横では父親が戦場に赴き、母親は家事の傍ら、軍事工場へ勤務する。そのような雰囲気の中で子どもも戦争に協力しろという気持ちもわかる。


(岬の分校)

 かくして男の子たちは戦場に往き、その多くが死んだ。

 ある講演会で私が紙のリサイクルは環境教育にはあまり良くないと言った。自然との共存、石油を使わないで自然との調和で生きるのなら、紙のリサイクルは石油を使い、新しい紙は樹木からできる、そのことを子どもたちに教える方が教育としては適当である、社会や産業は別の目的もあるから紙のリサイクルに反対というわけではないが、教育は別に考えた方がよいのではないか、といった。

 講演が終わり質問の時間になると小学校の校長先生という人が手を挙げてコメントをして頂いた。
「私も今の話のように紙のリサイクルを環境によいと教えるのは問題があると思っているが、小学校は再生紙を買わないと補助金が出ない」
と発言された。

 環境を守ると言うことでは大人も子どももない。でもどうして環境を守るかはその世代・世代で違い、かならずしも「これが真実」というようなものはない。だから大人の社会で一所懸命やっているから子どもも同じように教育するというのではなく、大人は大人、子どもは子どもというぐらいの余裕があった方がよいだろう。
 
 紙のリサイクルの問題の後、私はあるところに頼まれて文部省の先生用の解説書の一部を担当した。その時文部省の役人は「国の政策に従ってください」という。私は二十四の瞳のことを取り上げて、「大人な大人、子どもは子ども、あまり国家の政策にとらわれずに真実をそのまま子どもに教えたらどうですか?」と言ったが取り上げられなかった。

 「戦争」という異常事態でも子どもの教育は必ずしも軍事教育で無くても良いのではないか?

 例えば「今、日本は戦争をしている。君のお父さんは戦場で必死に戦っている。でも君たちはまだ小学生だから戦争には直接関係ない。戦争はそれほど長くは続かないから5年も経ったら戦争は終わるだろう。その時のためにもっと広い視野で世界の情勢やその中での日本のことを勉強しておくことが必要だ。君たちの時に戦争が適当かどうかは別の問題だから」
と教えることはできないだろうか?


(文部省)

 環境もそうだ。単に「補助金がでるから」という理由で紙のリサイクルをするのではなく、子どもたちには紙のリサイクルの仕組みや世界の森林の状況などを正確に教え、それによって子どもたちが将来より正しい環境の認識を持つようにする方が大切と思う。

 文部省という仕事は子どもの将来を担う仕事である。だから必ずしも今の政府の政策に従う必要はない。政府の政策とは現在を良くしようとする政策もあれば30年後を見た政策もあり、それは相互に矛盾することもあって良い。現在と30年後は必ずしも同一ではないからである。

 環境という面を言えば、現在は石油がある程度あり、金属資源も輸入が可能で、国内にはエネルギーや物質が豊富にある。でも30年後は石油が枯渇し、金属資源の一部も少なくなってくるだろう。その時の環境問題は現在の環境問題とは同一ではない。だから子どもには対策的な環境問題を教えるのではなく、環境とはいったい何なのか、地球と人類はどのような関係にあるのかを教えるべきだろうと私は思う。

 文部省が毅然として現在の政府の方針とは異なり、将来を見た学校教育を進めるようになって欲しい。そう言うと「文部省に配属される官僚は大蔵省や経済産業省を希望して入れなかった人だから、どうせダメだ」と現実論を言う人もいるが、私は社会が発達し、みんなの目により真実が見えるようになれば、教育の重要性をやがて社会が認めると信じている。

現代は、経済とお金が万能の時代だ。なにより余計にお金を儲けることを優先している。しかし、それは長くは続かないだろう。日本は昔から人の和や学問を重視し、商売を軽視する文化があった。その文化は人生というものに対する深い理解と日本の風土を織りなしたものだったと思う。

私たちはもう一度、子どものことを真剣に考える時期ではないだろうか?それにはもう一度、戦争後の作られた教育基本法第一条を読み直すことだろう。ここに書かれた教育には政府の陰はない。

「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」

(おわり)