インフォームド・コンセント


 「インフォームド・コンセント」という耳慣れない言葉を聞くようになってから、もう10年程になる。ある程度、英語もできるし医学の知識もある私も、この英語だけは違和感がある。

 意味を聞くと「診察を受ける患者が、医師の説明を良く理解し、同意した上で治療を受ける手続き」のことらしい。そして、ある医師がこの言葉を説明している文章には、次のように書かれていた。

 「医師の病気の説明には、専門用語という専門家だけでしか通じない言葉があり、これだけで説明されると全く理解できない。お互いが理解できる言葉で、確認しあいながら話す必要がある。」
・・・インフォームド・コンセントの第一歩は、良好なコミュニケーションから始まる。

 いや、まったく奇妙である。

 インフォームド・コンセントは専門用語を使わずに患者に説明する訳だから、あるいは良いことかも知れない。1950年から1960年にかけてアメリカでは医療の機械化、権利の主張、個人の自由と倫理などの概念が発達し、その中で医療にも患者の意志の大切さが強調されたのである。

 つまり、患者は自分の体の中でなにがどのように起っているのか知る権利があり、医師は説明する義務がある。患者は自分がどうしたらよいか医師を決め、それに沿った医療が行われなければならないというものである。

 本当だろうか?

 まず、「インフォームド・コンセント」という英語は難しすぎる。ほとんどの日本人が判らない。せっかく、医師と患者がお互いに理解しようとするなら、できるだけ簡単な日本語を使った方が良い。

 Informedというのは「知識のある」という意味で、consentは「同意」である。だから、直訳すると「知識のある同意」という意味で、何とかやっと判るが難しい。Informed guessというとguessが推測だから、「詳しい情報に基づいた推測」という意味になり、ここまで来るとinformed consentの意味が分かる。つまり「詳しい情報に基づいた同意」である。

 でも、多くの弱い患者さんにとっては「これからinformed consentを求めます」などと言っても判らない。医師会は日本語の語彙がそれほど豊富ではないから、言葉を思いつかないのだろう。

 私は医師会を非難することはできない。大学も少し前にaccountabilityという言葉がはやったこともあった。何かというと「大学のaccountabilityとは?」という言葉が出てくる。accountabilityというのは直訳すると「責任」で正しいが、この場合はそうではない。

 厳しく言えば教育方言のようなもので「大学が社会から委託されている責任をまっとうしていることを説明する責任」として使われた。ほとんど理解できない。

 このように権威をもつ団体で、学力が少しあると、ラテン語、ドイツ語、英語を使いたがる。心理的には良く理解できて、自分の知識を少し披露したいし、権威を守るためには御簾の中に入っていた方が良い。そして、よい日本語が浮かばない。それよりもっと基本的な問題は「日本の概念に無い」という場合もある。

 インフォームド・コンセントもこの4条件(知識の披露、権威の保持、日本語の語彙不足、そして概念構築をさぼる)がすべて満たされている。だから、何年たってもまだインフォームド・コンセントなどと言っている。

 日本でははたして患者に説明などいるのだろうか?私はいらない。私は私の体の中で進んでいる病気など知りたくない。寿命も知りたくない。もし、これから1年の命でも10年の命でも、今日は同じように生きたい。でも寿命を知るとそれに影響されるのがイヤだ。

 日本の文化はアメリカやヨーロッパとは違う。

 日本人には他人に対しての「礼」、自分の行為に対しての「誠」、医師が患者を思う気持ちの「仁」、運命をそのまま受け入れる「潔」が備わっている。患者は医師に失礼なことをしない「礼」、医師は患者を全力で治す「誠」と「仁」、そして患者は自分が信じた医師の治療ならそれで運命が決まっても良いという「潔」で望む。なにもインフォームド・コンセントなど要らない。

 もし日本の医療がインフォームド・コンセントがいるとするなら、それは医師の誠、仁が欠けているからだろう。患者は変なアメリカの知識さえ吹き込まれなければ、今でも礼と潔は持っている。