目指してはならないもの “人生”
工業製品は、完全にできあがり、ピカピカに磨き上げられてこの世に登場する。自動車もテレビも「買った時が一番良い」状態で、後は悪くなるだけだ。
ところが人間は違う。人間は赤ちゃんとして生まれるが、まだ体も小さく、泣いてばかりいる。半年も経てば反応も返ってくるし、肌も綺麗になるのでとても可愛いが、生まれたてというのはそれほど綺麗なものではない。
それが18年も経つと「番茶も出花」になる。もうすっかり自分のことは自分でできるようになり、覇気もあり、魅力タップリの完成品である。なぜ、人間は自動車やテレビのように「完成状態で」この世に生まれないのだろうか? なぜ、18年という時間が経つと出花になるのだろうか?
(奈良、天河弁財天の近くにある仏様)
ところで、この世には1000年を経て、それが制作された時よりずっと素晴らしい状態になったものがある。久遠の時を刻んでもなお醜くなるどころかさらに輝きを増すのである。
でも、人間は年を経ると劣化し、100年も経つと18歳の若者とは比べることも出来なくなる。当然と言えば当然だが、不思議と言えば不思議だ。人間の皮膚は1ヶ月も経てば新しい皮膚に変わる。だから、100歳になっても18歳の皮膚を作り出せば良いものの、そうはならない。
皮膚にシワができるのは皮膚の再生速度が遅いからだと説明されるが、この説明は「説明」になっていない。なぜなら、再生速度が遅いなら、速くすることでいつも若い肌を保てるのだから。
人間は赤ちゃんで生まれ、老化して死ぬ。なぜ、完全な形で生まれ、いつまでも生きていないのだろうか?工業製品なら老化するが、人間は毎日、ご飯を食べて「再生」しているのだから老化するはずはないのだ。それでも、老化する。100年も持たない。
もし、人間が完全な形で生まれるなら「製造プロセス」を工夫すれば良い。もし人間が老化しないなら「自分は最終的にこうなろう!」と目標を立てることができる。でも、両方ともできない。できるのは赤ちゃんで生まれ、老化して死ぬことだけである。
人生とは、その意義を突き詰めて考えても無駄である。なぜなら、もし人生に意義があるなら老化しないはずだからである。どんなに頑張っても結局は、衰えて死ぬ。そんな目標はあり得ない。
「目標」とは「達成することが望ましいもの」だが、それは人生ではあり得ない。なぜなら、時間の関数になっているからだ。だから人生とは目指してはいけないものであり、深く考えてはいけないものである。それに失敗したのが、あの紅顔の青年、藤村 操君だった。惜しい!
人生は目指すことができない。それは赤ちゃんで生まれ、老化して死ぬからである。それも目標に向かって頑張っている間に時間的に終わりになってしまう。それはあまりにも不都合だ。老化しないまでも夭折(ようせつ)したり、怪我をしているうちに選手寿命を全うしたり、まだ働けるのに定年になったりする。
なぞの総ては「時間」なのである。
人生が時間との勝負であるということは、人生が「目指してはいけないもの」であることを意味している。人生で目指すことができるものは「具体的な目標」ではなく、なかんずく「人との競争で可能となる目標」ではない。人との競争で達成可能となる目標なら相手の人が死ぬのを待てば良く、もともと意味のあることではない。時間をずらせば勝てる。
優勝、受験、出世・・・すべて人との競争が目標なので、目指しても意味が無い。
人生で目指すべきものは、我々の目標を消してしまうもの、つまり元凶である「時間」そのものである。人生では「人生」を目標にするのではなく、「時間」を目標にする。人生は時間によって消されるから時間そのものを目指すことによって人生を目指すことができる。
目標となる時間とは「その時」「毎日」そしてせいぜいどんなに長くても「今月」である。「一年の計は元旦にあり」とは目標が来年に渡らないからだ。来年のことを言えば鬼が笑う。
「勝負に全力を注ぎますか?」「いえ、そのプレー、プレーを大事にしていきたい」。
「今年は元気で頑張れますか?」「それは判りませんが、今日は一生懸命やりたいと思います。」
「時間」というのは不思議なものである。新幹線に乗って東京から大阪に行けば、大阪から東京に帰ってくることができる。しかし、時間という船に乗って昨日から今日へ来たけれど、昨日に帰ることは出来ない。
思い出せば哀しくて、泣きたくなる時間は冷たい。どんな失敗でも思い出になれば懐かしい。そんな時間は暖かい。冷たい時間に付き合うのではなく、暖かい時間と付き合うのがコツだ。
「人生」という長い時間は冷たく、「今日」という短い時間は常に暖かい。
おわり