研究者はなにを目指すのか?(2)

- 大学の研究 -

 大学で研究するのは当然のように思われている。「何を研究されているのですか?」というのはいつも聞かれることであり、「私は研究していません」と言えば、「そうですか、大学におられて研究していない理由は?」と訝しがられる。

 大学の研究はそれほど一般的に認識されているものなのだが、大学で研究する目的というのはまだハッキリしていない。大学は教育基本法や学校教育法で定められている教育機関だから、教育がその主体的な仕事である。

 でも高等学校までとは違い、大学には研究の任務も定められている。だから大学で研究すること自体は法律違反ではない。それでも、なぜ大学で研究しなければならないのかは不明だ。

 明治時代は大学に「欧米の学問を輸入する」という任務が期待されていた。その時代には大学の先生がまずヨーロッパやアメリカに留学して最新の学問を学び、そのおみやげを持って日本に帰ってくる。

 だから、大学の先生の部屋にはかならず「洋書」というものがあり、それが並んでいることがステータスでもあった。これは今でもあまり変わっていない。

 国立大学ではまだ「業績は英語で書いて外国に出した論文に限る」、「教授になるには海外留学(欧米)をしなければいけない」という風習は残っているし、欧米の大学の先生と知り合いで、時々、日本に呼べることも社会が大学の先生に期待することの一つである。

 このことは、日本の後進性といえばそうだと言える。自分のことを自慢する訳ではないが、私はやや世界でも新しい研究をするので、基礎的な文献や書籍は世界に求めなければならないが、直接的なことは自分で組み立てる。だから洋書はそれほど私の研究では役立たない。

 ところがすでに現在ではインターネットも発達し、航空機を使ってだれでもアメリカに行ける時代である。会社も組織的な研究をしている。だから、大学の先生が海外に出張して知識を盗み、それを日本の力にするということは明治時代ほどには期待されていない。

 そこで、大学の研究は「新しいことを発見する研究」という事になる。企業は収益を上げるための研究をするので、目的もハッキリしているし、ある程度、計画が立てられるような範囲でないと研究を認めてくれない。

 それに対して大学の研究は寝言のようなもので、先生が「これは面白い」と言えば、みんなは「そうですか」と言い、それで双方、満足していた。企業から見ると「役にも立たない研究をして」と腹の中では思っていても、失礼にあたるから言わない。

 そんな状態が数十年も続いただろうか。社会の人の心に少しずつジェラシーが湧いてきて、「大学の先生は何をやっているのだ」「大学の研究費が無駄になるのは社会的な損失だ」ということになり、「役に立つ研究」「産学連携」と言われるようになった。

 何かが取り上げられるとヒステリー状態になるというのが昨今の日本だ。リサイクルと言えば日本が模範にしたドイツ人が日本に来て「日本のリサイクルはクレージーですね」と言うぐらい分別に熱を上げている。狂牛病もそうで、「同じ牛肉をサンフランシスコにも東京にも出しているのに、なぜ日本人は文句を言うのか」というアメリカの牧場の人に分がある。

 産学連携もそうで、少し前までは「産業界に役立つ研究など大学の研究ではない」とか、「産と学が協力すると学問の自由が奪われる」と言っていた人たちが突然、180度、転換するのだから内心、驚いたり、あきれたりするが、そこは文部科学省やお金の力が強い。

 大学が長いものに巻かれる時代である。

 すでに議論も無く、大学の研究が「役に立たないから」という理由だけで突然、方向が変えられる。もともと、大学の研究とは何かをあまり深く考えていなかった大学も、馬脚を現して追従したというところだ。

 大学の研究はどうあるべきか、というテーマは、
1) 大学が教育の場であること、
2) 明治時代とは違うこと、
3) 大学は企業ではないこと、
の3つを少なくとも考えなければならないだろう。

 そこで、3)を最初に考えてみる。日本には大学以外にも多くの研究者がいて、日夜、少しでも良いものを創り出そうとしている。それも大会社の研究であれば知識は世界から取れるし、有望な研究なら多くのお金を注ぐこともできる。

 研究はやってみないとわからないものだから、大学の先生が何かを着想して研究費の申請書を1年ほど前に書き、そのお金が国から下りてくるのは6月である。ひどい時には2月などという時もあり、わずか1ヶ月しか研究ができないという笑い話のようなことも起こる。

 そんな環境と違い、会社では有望ならお金は出るし、有望ではないとなると研究は打ち切られる。だから機動的な研究ができる。

 もし大学の研究が企業と同じように「有望な研究」であるとすると、これだけ多くの研究が企業で行われているのに、それに加えて「より悪い環境での研究」を大学に期待しても成果は上がらない。つまり、日本社会全体を考えると、大学で「有望な研究」をするのは感心しない。

 次に2)だが、すでに明治時代ではないので、日本の基礎的な研究が常に欧米を真似る必要も無い。むしろ時代の変化が早いこととヨーロッパやアメリカと日本は社会の要求や風習も違うので、今までのように真似るのはそれほど得策にはならない。

 たとえば環境ではいつもドイツが出てくるが、エネルギー・資源の使用量、国土の利用、ゴミの量などなにをとっても環境では日本が先進国だから、ドイツを真似ると、ろくな事は起こらない。劣位の国を真似るバカもいないのだが、その愚をなすことになる。

 大学は教育の場であるという1)と研究の関係を考えてみたい。工学部では大学4年の時に卒業研究というのをやる。卒業研究とは先生と学生がほぼ1対1で研究を行う。その時に、学生に学ばせるものは「先の見えないことをどのような思考過程で進めていくか」という事である。

 3年までの講義では体系的に整理された学問を学ぶが、学生は4年になって、それらの知識を応用して、「わからないこと」をどのように進めるかを身に付けるのである。そのためには学生に「新しい研究」「先が見えない研究」を体験させなければならない。

 私は大学の研究テーマを選ぶに当たって、1にも2にも「学生の教育に資する研究」を採用する。学生の論理的、冒険的、柔軟な思考回路を形成できるような研究である。私は時々、そのことを次のように表現する。

 「この世にスーパーマーケットがあり、それを良くする研究をしているのではない。それは「改善研究」というものだ。この研究室で君たちが学ぶのは「スーパーマーケットが盛んな時に、コンビニエンスストアに着想する回路を作ること」である。」

 また学生は研究者としてはまだ未完成であり、医者で言えばインターンのようなものである。だから本格的な診察をする時期ではない。タクシーの運転手で言えば二種免許を習っている時だから、まだお客さんを運ぶ時期ではない。

 従って、研究が成功することは学生にとってあまり意味が無く、それより研究を通じてより優れた人物になるための訓練なのである。従って、大学の研究は学生の訓練になる研究が期待されるだろう。

 幸いなことに、学生の頭の訓練になる研究は、新しい研究であり、改善研究でも頭を使う研究である。従って、仮に成果が出れば社会の役にも立つが、社会のために役立とうとするのではなく、それは結果として役立つものでなければならないだろう。

 でも、学生本位の研究は、大学の研究としてはマジョリティーではない。普通は、「何か判らないけれど、大学は研究するところだ」と思っている人が多いし、多くの研究は教員の出世のために選択される。

つづく