― 事実 ―

 科学者は研究をする。その研究とは「今、自分が考えていることは間違いであることを見いだすこと」であり、それに全力を注ぐ毎日を送っている。そして人生で何回も自らの考えが間違っていたことを自らが証明する経験を重ねる。

 その結果、
「今、考えている事は絶対に正しいが、同時に、絶対に間違っている。もし、自分がこれまで学んできたことが間違っていなければ研究は止めなければならない。」
と考えることができるようになる。

 科学者は二重人格なのである。

 自分が正しいと思っていることを否定する科学者にとって、その根源となる「事実」は重い。もし、相手が人間なら一生の間、だまし続けることができるが、科学は相手が自然だから騙すことができない。いくら自分の希望が「こう」であっても、自然が「ああ」と言えばそれで終わりである。

 自分が正しいと思っていること、それが自然からの「事実」で打ち破られる。「そんなはずはない」と何回思っても、何回、実験しても、自然は冷たく科学者の前に真実を突きつけてくる。だから、科学者は事実に弱い。

 社会がどういおうと、学者の論文に何が書いてあろうと、事実がわたしに教えてくれることがある。あまり専門的な例では共通の場ができないので、社会的で関心を呼んでいるダイオキシンとリサイクルを例に取ってみる。

1) ダイオキシンは「猛毒では無い」。なぜ、猛毒では無いかというと「たき火をしても発生するのに、犠牲者が出ない」という事実があるからである。社会はダイオキシンが猛毒だという。それは事実とは関係が無く、法律や規制、そして先入観が事実より上位にあるからである。

2) リサイクルはゴミを増やす。なぜ、そうかというと「あれだけ国民全部で進めてきたペットボトルのリサイクルは7年経っても、ゴミが増えている」という事実があるからである。社会はリサイクルがゴミを減らすと言う。それは事実とは関係が無く、すでにリサイクル用の箱を作ってしまったとか、リサイクル協会の人の仕事を奪うのかということに関心があるからである。

 ダイオキシンに犠牲者が出ないことや、リサイクルがゴミを増やすことは、すでに「学問」でも「意見」でもない、それを越えた「事実」として認められる。

 ダイオキシンの毒性が盛んに研究されていた1970年から1990年まではダイオキシンは学問であった。でも事実が積み重なれば次第に学問から離れる。

 わたしがリサイクルの計算をしていた1998年にはそれは資源学であり、材料工学、そして熱力学だった。でも今は違う。事実であり、リサイクルという行為はこれまでの学問には反していないということであり、研究対象にはならないことを意味している。

 わたしは1998年にそれまでの学問の考え方や式を使って計算し「リサイクルはゴミを増やす」と指摘した。それは事実であったが、資源学や材料工学のこれまでの知見がリサイクルに関しては間違っていなかったことを示している。わたしの学問的な功績ではない。

 学問的な功績になるためには、わたしの計算が間違っていなければならない。間違っているということはそれまでの資源学や材料工学の間違いを発見することになり、それが研究である。

 普通の社会は「計算が合っていれば満点」であるが、科学は「計算が合っているのは普通のことで、間違っていて初めて功績」である。それほど自然界は奇妙で複雑だ。

 「事実は小説より奇なり」という。そうだろう。事実は時に人間の予想を超えている。いや、ほとんどが予想を越えるのかも知れない。小説家の頭の中に浮かんだものがどれほど奇想天外でも事実にはかなわない。

 あれほど繁栄していた平家。それも清盛の息子の代であれほど脆くも崩れるとは思ってもみない。その平家を壇ノ浦で打ち破った義経。彼もまた数年後にはこともあろうに実の兄に追われて屍となる。その兄の政権はそれからまもなく公暁に暗殺されてその幕を閉じる。

 清和源氏は日本の家柄の中でも特別に優れた血筋だった。武家として武勇の名が高く、勇猛果敢な武士を多く輩出した。その家系がついに仇敵を打ち破って鎌倉に幕府を作ったのである。それも背景には板東武者がついている。よもや三代であっけなくその幕を閉じるとは誰が想像しただろうか?

 歴史は人間の貧弱な想像を越えて新しい時代を作っていく。人間は今の学問を正しいと思い、今が永久に続くと錯覚し、今の延長線上でしか、ものを考えることができない。

 科学者は未来が予想できると考えてはいない。未来は創造されるものであり、現状の延長線上には無いからである。事実は新しく形作られる。やがてダイオキシンは猛毒になり、リサイクルがゴミを減らす時代が来るかも知れない。私たちが認識し、知覚できる「事実」は限定的だから。

つづく