― キャンパスというもの ―
2006年の9月5日の中日新聞に次のような記事が載った。大学の盗難事件である。
昔から神社泥棒、教会泥棒、火事場泥棒の類はいる。石川五右衛門ではないが、「浜の真砂や尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」であり、盗人が居なくなるためには我々、普通の人の心がもう少し綺麗にならなければダメだろう。
盗人がいれば鍵を掛けなければならない。自衛手段は常に必要である。北朝鮮が日本人を拉致するのなら日本海を警護しなければならない。拉致されてからでは遅い。
だからこの新聞記事が出た日、大学事務から「鍵を掛けるように」との注意が来た。注意としては妥当である。でも、大学のキャンパスはどのようにあるべきかと考える私には、この注意は釈然としなかった。
「盗難が続くので、鍵を掛けるのではなく、大学がより大学らしくしましょう」と呼びかけたいものである。その理由は・・・私の経験話から始めたい。
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都心の大学にいた時のことである。すでに退勤時間を過ぎた夜の8時だった。私は教授室で「入り口を背にして」論文を書いていた。その時、ふと後ろに人の気配を感じた。人間とは敏感なもので、何ということはないがなんとなく振り返ったのである。
おそらく小さな物音か、息を吐く音か、もしかすると体温で少し部屋の温度が上がるのかも知れないが、「人の気配」というのはあるものである。
振り返るとそこに一人の男が立っていた。姿形は異様で年の頃、50歳ぐらい、中肉中背というところだ。着ているものはぼろぼろ、そして少し臭気もする。おそらく長い間、風呂にも入っていないのだろう。
「メシをくれ。腹減ってるんだ。」
と彼は言った。私は仕方なく椅子から腰を上げると、彼の方に歩いていった。あまり接近すると危ないが、ともかく入り口は一つしかなく、彼はその前に立っている。
「ここには無いよ。ここは大学だから」
と私が言うと、彼は繰り返した。
「腹が減っているんだ。食えるものは無いか?」
「ここは大学だから、機械はあるし、本もあるが、食べるものは無いよ。大学には食べるものは無い。わかるか? お腹が減っていることは判ったが、食べるものは大学には無いよ。」
とまずそう言った。でも、私の目の前に立っている人はお腹が減っているのだ。大学に食べ物が無いと言っても彼には役に立たない。
そこで、
「ここは大学だから食べ物はないが、ここを出てあっちに少し行くとコンビニがある。コンビニなら食べ物があるから頼んでみたらどうだ?ここは無いから私に頼んでもどうにもならないよ。」
「どこにあるんだ?」
「コンビニはあっちにある。ここを出てね。あっちに行くんだよ。そうすると、すぐある。大丈夫だ。」
彼は得心はいかないけれど、ともかくここが大学であること、どうも大学でねだってもダメらしいと思ったのか、ふっと踵を返すと私の指さした方向に歩いていった。私は、また机に向かって論文を書き始めた。部屋の鍵は開いたままだった。
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この社会には、いつでも開いていることが必要な場所がある。
神社、お寺、教会、病院、大学、交番・・・・
神社、お寺、教会はいつも開かれていて心に病を持つ人を待っている。そして修繕する。だから鍵は掛けない。心の病を背負っている人が鍵を借りたり、申請したりするのは辛い。
病院も体に病を持っている人を待っている。そして修繕する。だから鍵は掛けない。病で苦しんでいる人にとって鍵を探すのは辛い。
大学は頭に病を持っている人を待っている。そして修繕し、改善する。だから鍵は掛けない。いつでも門戸は開放され、誰でもいつでもOKである。教授室に浮浪者がご飯をねだりに来てもOKである。
そしてお寺泥棒はバチが当たる。病院で泥棒を働こうとする人はいない。点滴の装置を盗めば自分が怪我をした時に助からない。でも病院で盗みを働いてもバチは当たりそうもないが、なんとなく「盗む気にならない」。それは医師と看護婦さんの白衣にあると私は思う。
人間というのはどこでも同じ気分ではない。歌舞伎町に行けばそれなりであり、朝のホームに立てばまたそれはそれなりである。ピンと張りつめた会議に出ればそれなり、早朝野球のグランドならそれはそれなりである。
病院には一種の雰囲気がある。社会から隔絶され、そこでは一時的に故障した人たちが寄り添い、病を治す。お医者さんや看護婦さんはそれを助けてくれるありがたい存在であり、尊敬すべき人たちである。そんな場所で盗みを働く気が起こらない。
だからお医者さんや看護婦さんが「患者様」などと呼んではいけない。病を持った人に心から同情と治療の熱意を持っていなければいけないが、態度は大きくて良い。患者からみれば医者は患者を「患者」と呼ぶ方が人間的で丁寧である。
(雪のハーバード大学)
大学は社会と隔絶し、人の頭脳を成長させ、人格を形成する。従って人間が頭脳の点において他の動物とは違う生き物であり、教育を受けることによって野獣から人間になるのだから神聖な場所だ。教授は常に背広を着てネクタイを締め、難しい顔をして廊下を歩かなければならない。
大学のキャンパスに入ると社会とは異なる「近寄りがたいレベルの高さ」が感じられなければ大学ではない。整然たる建物群、綺麗に掃き清められた道路とその両側の街路樹、そしていかめしい看板。すべては知の集積場所としての威厳に満ちている。それが大学である。
私は学生にも「キチンとした服装」を求める。そして学生に言う。
「柔道を学ぶ時には綺麗な柔道着をキチンと着る。ここは神聖な教育の場だから、清潔で上品な服装をしなければならない。」
大学にピンと張りつめた雰囲気があり、先生も学生も「さすが大学」と思わせる服装と態度を取り、建物にもそれなりに工夫が凝らされていれば、盗難は極端に減るだろう。盗人の種は尽きないからすべてが無くなるというわけにはいかないが、鍵は要らない。
大学の建物が汚く、構内に交通規制の看板が乱立し、教授はスリッパ、学生は汚い服装でアイスクリームを食べながらエレベーターに乗るようでは泥棒が大手を振って大学に入るのも理解できる。
国立大学の盗難事件が増えたのは、鍵をかけないからではなく、国立大学の衰退がある一線を越えたからである。
つづく