- 取材源の秘匿 -

 昔から、新聞の記事が問題になった時、記者が誰からその情報を貰ったかが問題になる。このことを「取材源の秘匿」という難しい言葉で言う。

 つい先日、最高裁判所で取材源の秘匿についての判決があり、「国民の知る権利は重要だから、取材源を明かさなくても良い」との判決があった。

 私も「国民の知る権利」は本当に大切なものだから、取材源を秘匿できることはとても大切な事であり、それを最高裁判所がはっきりと認めたのは、良かったと思う。でも少し、引っかかるところがある。

 最高裁は、取材源を秘匿できるのは「普通の場合」であり、「取材の手段や方法が刑罰法令に触れないこと」という条件を付けている。法律を守るのは万人に求められていることだから、取材の方法が刑罰になるようなものはいけないというのは当然のようであるが、少し突っ込んで考えなければならないだろう。

 例えば政治が独裁的であるような場合、記者が法律を恐れて取材を制限すると本当に大切なことが明らかにならないこともある。だから、若干の盗聴や家屋侵入などでもそれによって得られた情報が本当に国民のためなら罪にしないような条件もいるだろう。

 でも、報道の自由に名を借りて、田中真紀子さんのお嬢さんのプライベートを暴き、それは田中真紀子が議員であるから当然だ、というような論評を取るなら報道の自由の名を借りた販売量アップだから認められない。

 取材の自由、取材源の秘匿が認められるのは、最高裁判所が付けた二つの理由、
1) 取材の手段や方法が刑罰法令に触れないこと、
2) 民事訴訟が社会的に重大で、取材源の秘匿の社会的価値を考慮してもなお証言が必要不可欠といった事情が無いこと、
のようなものではなく、もっと基本的な条件を国民は望んでいるのではないか。

 私が考える国民が期待している「正常な報道機関」とは、
1) 事実を報道すること、
2) 報道機関が正義を唱えないこと、
3) 取材して報道すること、
4) プライベートの報道は控えること、
であると思う。

 新聞が「事実を報道しない」ということはすでにこのシリーズで明らかにしている。なぜ「事実を報道できないか」という理由は、第二番目の条件によってもたらされるものだから、まず第二の条件を満足すれば、第一の条件をクリアする可能性もある。

 事実を報道しないマスコミの場合、その取材源の秘匿はできないと考えられる。取材源が秘匿できるのは、マスコミが事実を報道し、その事実を国民が知ることが大切だからであり、マスコミが考える正義を国民が説得されるために秘匿するのではない。

 マスコミは取材しなければならない。取材しなければもともと取材源の秘匿はあり得ない。これについてすでにこのホームページでも示したように、マスコミが取材しないで報道する例はかなり多い。私が研究している環境関係ではかなりの記事が取材しないで書かれているか、マスコミの正義にかなう所だけを取材している場合が多い。

 今度、最高裁が判決を出した事件は「米国食品会社の日本法人が巨額の所得を隠していた」というものであるが、これは事実だったらしく、アメリカの会社が「米政府が日本の国税当局に提供した情報が報道機関に漏れた」ということで米政府に損害賠償を求めている。

 報道が事実ではない可能性が高い時、私は報道機関に問い合わせをするのだが、そんな時、電話をしてもなかなかつながらない。つながっても「たいへん不機嫌な女性」が必ず出てくる。

 私が数回電話して全部、「不機嫌な女性」が出てくることを見ると、それは個人的な性質ではなく、いわば「組織ぐるみ」であることは間違いないだろう。なぜなら、視聴者との窓口が組織ぐるみで不機嫌で、取り合わないというのは理由があるからである。

 まずは「番組の内容について問い合わせをされても困ります」というのが最初、そして事実を話して事情の説明を求めるとさらにツッケンドンになる。

 取材源の秘匿を社会が認めている間に、マスコミは決して増長せず、必ず事実を報道して貰いたい。そして、テレビ朝日の所沢ダイオキシン騒動での報道で、事実が報道されなかったという最高裁判所の認定に対して、「結果的に良かったのだから、記事は事実でなくても良いじゃないか」という論評を朝日新聞がしているようでは、最高裁の判決に答えられないと私は思う。

 私は希望したい。それは「マスコミが意見を持たず、正義を主張せず、ただ淡々と事実の報道を続ける」という存在になって欲しい。事実ほど将来を正しくするものは無く、人間が考えた「正義」ほど怪しいものは無いからである。

 それなら取材源の秘匿は守りたい。そのぐらいの突っ込んだ社説が欲しいものである。

つづく