― 事実でなくても、結果的に貢献すれば ―
このシリーズの(6)に、テレビ朝日がニュースステーションで放送した内容について最高裁で有罪になったという話をしました。その事実を朝日新聞の社説を引用して確認しておきたいと思います。
その社説は、「苦い教訓と懸念と・・・テレ朝判決」と題したもので、朝日新聞の2003年10月17日朝刊に掲載されたものです。そこで、次のように言っています。
「看板番組「ニュースステーション」が99年2月、民間研究所の調査結果を取り上げて、埼玉県所沢市の野菜はダイオキシン濃度が高いと放送した。これを機に野菜価格が急落する。ところが、この調査で最も汚染濃度が高いとされたのは、野菜ではなく、煎茶(せんちゃ)だったことが後でわかった。」
「一、二審とも、「所沢の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたという報道内容は主要な部分で真実だ」として農家の請求を退けたが、最高裁は「真実との証明がない」として判断を覆したのだ。」
「汚染データの示し方には欠陥があったといわざるをえない。放送を見れば、ホウレンソウを中心とした野菜が汚染されていると思うだろう。スタッフが研究所にきちんと確認さえすれば、測定値が最も高いのは煎茶だったと簡単にわかったはずだ。
取材の基本をおさえ、正確にデータを伝える努力が軽んじられていたのだ。テレビ朝日には厳しく反省を求めたい。とはいえ、この点に目を奪われるあまり、ダイオキシン汚染に警鐘を鳴らした報道の意義を否定することはできまい。」
「この報道をきっかけに、ダイオキシン対策法ができ、大気中に排出されるダイオキシンの総量規制が導入されるなど対策が進んだ。所沢のダイオキシン濃度も大幅に下がった。今回の最高裁判決でも、泉徳治裁判官が補足意見として「長期的には農家の人々の利益擁護に貢献した」と述べた。
だが、そうした報道の意義を評価する見方は、今回の最高裁判決では全般的に乏しいのではないか。最高裁の判断が一、二審と全く異なったのは、報道の社会的な役割をどこまで重視するかの違いもあっただろう。それが気がかりだ。」
なかなかしっかりした社説で、テレビでニュースを報道する時には正確を期さなければならないからテレビ朝日に非があるとした上で、報道は間違っていても、結果は良かったのだから判決は今後の報道の貢献を制限するものではないか、という疑問を呈しています。
もし、科学が真実を明らかにし、マスコミが事実を報道するというのが役割であるとすると、科学とマスコミは社会の中で、かなり似た存在であることが判ります。
マスコミの報道が「事実と違っていてそれによって損害を被る人がいても、結果が良ければ罪にはならない」という判断はかなり奥の深いものがあります。それは両刃の剣のようなもので、
1) もし制限すれば自由な報道が萎縮する
2) でも、虚偽を報道するのはマスコミの本務ではない。
ということです。
でもこの話にはもう一つの問題点があると私は思います。それはマスコミ側で「ダイオキシンは悪」という方向性を持っていたことだろうと思います。ダイオキシンが悪かどうかは「患者が出るか」というような、事実を積み重ねれば自動的にわかってくることで、マスコミは最初からダイオキシンが悪と決める必要は無いように思います。
ダイオキシンが動物実験で猛毒だと判れば、その事実を報道することは社会にとって役に立つでしょう。でも、ダイオキシンが人間にとってはそれほど害が無く、ダイオキシンに対して長期間、かなりの濃度で接した人でも障害が出ないという事実も同時に報道するのが良いのではないかと思います。
ダイオキシンは猛毒だ、ダイオキシンは悪だ、と繰り返し報道すると、人間は何となくダイオキシンが人間にも猛毒だと錯覚します。そんな雰囲気の中でこの報道の間違いが起こったのではないかと思うからです。
当時、ダイオキシンは猛毒だと報道されていました。そんな事実は無かったのですが、それは薬害に怯えていた社会に膾炙(かいしゃ)し、記事は注目されました。たとえば、人間の精子が半分になっているという報道もありましたが、それは例外であることが後で判りました。
マスコミはその時、その時の事を報道しなければならないので、多少の間違いは仕方ありません。しかし、当時でもダイオキシンは猛毒ではないということを日本の毒物の最高権威、東大の和田教授が主張しておられたにも関わらず、マスコミは自らの「正義」に合う先生だけに取材したのです。
それがこの間違いの報道を呼んだことを少しは指摘した方が良かったと思います。またダイオキシンの規制が厳しくなったこと自体が社会にとって有益かということも、事実をもって示すのがマスコミではないかとも思います。
つづく