「なぜ、新聞は真実を報道できないのか?」

 2005年夏。小泉純一郎総理が「私は国民に聞きたい」と言われて8月8日、衆議院の歴史的解散をしました。そして9月11日の投票日、大新聞は一斉に一面、社説などに「皆さん!選挙に行きましょう!」と呼びかけました。

 出張中だった私はホテルの朝食を食べながら、新聞を眺め、はじめてこの長い間の疑問が一気に解けていくのが判ったのです。この疑問を書き始めて4回目になりますが、その時やっと解答が判ったのです。

 「新聞はもともと事実を伝えるものではない」
というのが第一結論。そして、
「新聞は庶民に正義を諭す(さとす)ものだ」
というのが第二の結論でした。

 私の目前から霞が徐々に晴れていくのを感じました。私の目の前にある新聞までもがハッキリと見えてきました。

 ああ、そうか!だから新聞は選挙に行けと庶民に勧めるのだ。いつから新聞が、選挙管理委員会か、中学校の先生か、はたまた自治省になったのかと思ったら、そうではなく、彼らは「鞍馬天狗」から始まって「スーパーマン」、「鉄腕アトム」、「ウルトラマン」「正義の味方ゲーム」に至るまでの正義の味方の一人なのだ。

 それで判った!

 かつて、日本が中国東北部に攻め入り、傀儡政権としての満州国を作った後、日本政府は国際世論にも気を遣って満州国に及び腰だったが、新聞は「兵士の死を無駄にするのか!」と満州国確保の論陣を張った。その理由は「満州国の利権を持つことが、当時の新聞から見て正義」だったからである。

 かつて、日本が中国の上海に攻め入り、上海を占領した後、南京に進軍した。当時、参謀本部も含めて日本政府は進軍に反対、現地の将校兵士も厭戦気分だった。でも、新聞は南京侵攻を「正義」と考えた。そこで、誤報を続ける。

 現地軍は早く帰りたいとばかり願っていたし、参謀本部は軍が中国奥地に進軍するのを止めるのに躍起だった。そんな時、新聞は次のように報道した。取材をしなかったか、取材しても情報を取捨選択したのである。

・ ・・現地軍、意気盛ん!
・ ・・中国なにするものぞ。一撃をもって打破せん!

 新聞に「正義の活字」が踊り、内地では提灯行列が行われる。内地の人は新聞報道を事実と思っていた。まさか、新聞は事実を伝えるのではなく、新聞が考えて「正義」を「諭す」ために存在するとは夢にも思っていなかったのである。

 そうしてしばらくすると現地軍は南京に侵攻せざるをえなくなり、日中戦争が幕を落とした。情報は人の心と行動を支配する。だから、一旦、新聞が「正義」と決めたことに社会が追従し、社会がその気になると「糾える縄のごとく」幻想の世界に突進する。

 かくして日本は、もしかすると誰もが「そんなことになるの?」と思いながらも、昭和天皇も新渡戸稲造をアメリカに派遣して戦争回避に動かれたのに、太平洋戦争に突入してしまった。その犠牲、300万人、広島長崎の原爆、東京大空襲・・・すべては「新聞の正義」が作った幻想だった。

 「武士道」を表した新渡戸稲造。彼が昭和7年4月、「日本を滅ぼすのは共産党より軍閥だ」と発言、それを愛媛新聞が書き、さらに「国賊新渡戸稲造博士の自決を促す」と論説したのも新聞だった。

 新渡戸稲造が「偉い人」であることはここに書くまでも無いだろう。すでに5000円札になっているのだからたいしたものである。それより「武士道」を読むと彼の高い人格と深い教養、そしてこだわりのない物の見方を知ることができる。その彼を「国賊」と呼び、新聞は「自決」を促したのだ。

 でも、これは「正しかった」のかも知れない。新聞は「事実を報道する」のではなく、「正義を庶民に諭す」のであるから、新渡戸稲造が「悪」であると判断すれば新聞が徹底的に批判するのは当然で、その批判に自決が入っていても仕方がないかも知れない。もし、悪いとすれば我々、庶民の方であり、最初から事実を報道するのが任務ではない新聞に事実を求めることが間違っているのである。

 積年の謎は解けた。高等学校の頃、「なぜ、日本とアメリカとの間に10倍の生産力の差があるのに、その事実を報道しなかったのか?」、「上海の現地軍は厭戦だったのに、なぜ進軍したのか?」、「なぜ、平和主義の新聞が(高校生の私は誤解していたから)、日米開戦に反対せず、逆に反対した新渡戸稲造に自決を促したのか?」という疑問の答えは簡単だった。

 原子力報道も良く理解できる。朝日新聞は「正義を諭す」のが目的であるから、原子力が「不正義」であると決めれば、原子力の欠陥だけを報道するのは正しい。問題は、社内の最初の決定であり、それが朝日新聞のどこかの会議で決まればそれで道筋は決まるからである。
 
 現代になり、日本国民の多くが選挙に行くのは国民として大切なことだと考えている時でも、ほとんどの新聞が「投票所の場所と時間」の報道ではなく、「選挙に行きましょう」という呼びかけをするのもまた当然である。巷には無知蒙昧の庶民がいるのであり、それを諭すのがインテリで構成されている新聞だからである。

 そう気がついてテレビを見ていたら、確かにニュースを伝える人はいつも怒っている。何に怒っているのかと聴いてみると「正義に反する」と怒っている。「ケシカラン!」「何を考えているのだ!」という発言が続いている。

 私が「リサイクルしてはいけない」という本を出版した時、朝の8時頃から10時頃までやっているワイドニュース番組で、
「また、変な先生が売名のために言っている」
と発言があった。私は家内に、
「取材をしないと、売名かどうかは判らないのに」
と言ったことを覚えている。
 
 でも、これも今となっては理解できる。そのテレビ局にとってリサイクルは正義であり、正義に反する人は糾弾しなければならない。その人が本当に売名だったか、リサイクルがどのようなものであるかを報道する必要はない。ともかく、最初に正義を決めてそれを庶民に諭すのだから、正義に反することを言ってもらっては困るのである。

 環境についてのあらゆる誤報も氷解した。現在の地球が第二氷河時代であっても「温暖化が悪い」と決めれば暖かくなるのは悪い事であり、北極と南極の氷が溶けて海水面が上がることを防ぐのが「正義」であると決めれば、たとえ物理の計算で逆であっても、IPCC(国際研究機関)が「下がる」と言っても「上がる」と報道するのが正しい。

 「事実」より「正義」が優先するのだから。

 ダイオキシンもそうだ。ダイオキシン、焼却炉、たき火が悪いと決めれば後は簡単で、追放していけば良い。実験結果はいろいろな結果が出るので、それからダイオキシンが毒らしいという結果だけを拾うのはそれほどの努力は要らない。そして「ダイオキシンの毒性は弱い」という人がいれば「売名」「国賊」と非難すればそれでよい。情報力は圧倒的だから。

 新聞の「誤報の正義」でこの世から葬り去られたものは多い。チクロ、環境ホルモン、水銀、コバルト、ニッケル・・・果ては亜鉛まで葬り去られそうになっている。その損害は計り知れない。太平洋戦争のように300万人が犠牲になるというまでには至らないが長期間にわたればずいぶんの犠牲だろう。

 ついに、新聞が事実を伝えることができないのかという理由はわかった!
そんなことは当の昔に判っているよと冷静に言う人もいるだろうが、多くの人、そして新聞自体もあるいは自分たちは事実を伝えていると錯覚しているかも知れない。だから、この問題はもう少しいろいろな面から光を当ててみたい。単に新聞をやっつけても仕方がないのだから。

つづく