-奇跡と知-
「知恵」「知」「頭で考えること」「理屈」「論理」などいずれも私たちの頭脳の産物である。知を働かせて論理的に考えた結論は「正しい」と判断され、裁判などでも論理が大切にされる。
しかしこのシリーズの「知の循環性」「知の包括性」で整理したように、知はかならずしも最終的に正しい結論を得る手段ではなく、一つの問いに対して狭い範囲で論理的な結論を導き出すにすぎず、また時間的にも空間的にもかなり制限された範囲でしか論理展開ができないと考えられる。
一方、お釈迦様やイエス・キリストが開いた宗教的世界では、非論理的な伝承もみられる。宗教の非論理的伝承のうちの典型的なものが「奇跡」の伝承であろう。イエス・キリストが病人に手を触れるとたちまち病気が治るとか、何千人もの信者に食料やブドウ酒を作り出して配るなどの話がでてくる。
奇跡の話は信者にとっては大変大切なものであるが、信者ではない人にとっては奇跡を信じないと宗教を信じることができないという大きな障害になる。特に近代科学を勉強した人にとっては奇跡を信じることはさらに難しく、ある大学教授のように奇跡の話を片端から批判してつぶしていくことを使命と考えている人もいる。
私は奇跡の話を否定する人は、人生で辛い思いをしたことがない人だと思う。もしどうしようもなく愛する肉親が命を落とすのではないかと不安に駆られたとき、そしてその肉親が自分が手の届かない遠くにいるとき、私は「祈る」。私には祈ることしかできず、奇跡を信じる以外に科学者としての私に出来ることはない。
奇跡の話はキリスト教に多く、仏教にはやや少ないが、仏教でも多くの奇跡の話が伝わっている。宗教の世界で、奇跡の話が多いのは次の2つの理由がある。
一つはお釈迦様やキリストが生存していたときは直接その人格に触れることができた、いわゆる直弟子たちはお釈迦様やキリストがこの世を去ってしまうと、その人格の偉大さを何で示したらよいかかなり悩んだ。実際、お釈迦様の横で話を聞いていると争いなどをする気も起こらず心静かに生活をしていたのに、お釈迦様が亡くなるとたちまち、つまらないことの差異を問題にし、宗派の争いが起こる。
キリストの場合も同じような描写をみることができる。キリストに直接接した多くの人は一様にキリストの素晴らしい人格に驚き、悩みを忘れ自らの心に中にある苦しみから離れることができる。それまで自分の身体に異常があると、それが悩みの種になっていたがキリストと会い、その説教を聞くと不思議と辛い体が楽になったのである。
そのような体験を現実にした直弟子たちはそのことを伝えたいという気持ちとそれを文章や言葉で伝えることが困難なことを知った。お釈迦様がお亡くなりになり、直弟子たちの間に争いが起こったことは仏教の研究で明らかになっており、信憑性が高い。
つまりお釈迦様やキリストが到達し、その全人格で活動を行った場所に居合わせた人は大きな衝撃を受けた。その衝撃は、
「何でこれまでこんなに小さなことに思い悩んでいたのだろう?」
という不思議な気持ちだった。だからたとえ厳しい病気にかかっていてもそれも気にならなくなるほどの衝撃だったと考えられる。
もし病気でもそれに全く気がつかなければ、病気というべきではないかもしれない。人間は自分で認識してそれに反応しなければ、存在しないも同じだからである。
私は昨年、北海道の北見にいってアイヌの生活の一部を観察する機会を得た。そのときアイヌの人たちには病気という概念がないのではないかと思ったものである。自然の中に生きて自然に死んでいく、この人たちはすべてを自然に任せ、病気すらも気づかずにその人生を送ったのではないかと考えられたからである。でもその後このことに興味を持って調べてみるとアイヌにも病気という概念があったらしいということがわかった。
でももしお釈迦様にお会いし、キリストの教えを受けて、その瞬間すべての煩わしさから解放されたら、病気はないも同然である。それが奇跡の物語であろう。だから、奇跡とは直弟子たちが何とかして師匠のおられたときのことを言葉で示そうとして師匠を魔術師にしたともいえるし、その場に居合わせた人たちは本当に病気が治り、おなかがいっぱいになったと考えのるはそれほど奇妙ではないのである。
このように人間の言葉、人間の頭脳の働き、それらの結果として出てくる「知」というものはそれほど深遠なものではなく、むしろ言葉で書き表すことができず、頭脳で考えることができないものの中に真実が存在することはほぼ間違いないのである。
難しいのはその次であり、頭脳で判断できず、すでにお釈迦様が入滅されて2600年も経過してしまったからには、現実に真実に接する機会を持たないからである。それに少しでも近づこうとする試みが禅であり、従って禅は言語を直接使わず、理屈を最小限にして、直感の力を磨く。それでも十分ではないが、少しでもお釈迦様に直接お会いする状態に近づこうとしているのである。
お釈迦様に会うことができず、禅の修行もすることができない我々にできるせめてものことは、頭で考えること、理屈として筋の通っていることには限界があることについて、常に十分な配慮をしなければならないということである。
若いとき、私は知に自信があり、議論とその帰結である論理を信奉していた。でもその知も論理も明確な限界があることを長い研究生活で痛いほどわかっている。そしてそれは、私たちが傲慢であり、自分が頭で考えたことが正しいと錯覚することに原因している。
私たちは自分が間違ってるということをするわけにはいかない。朝起きて歯を磨くことから初めて、すべてのことは自分が納得したことをしている。でもそれが間違っているのである。そのことが判ること、それができることが少なくとも環境問題を知でなんとかしようとすることができる単著になるのである。
もし人間から奇跡をとってしまったら、私たちの生活は単調で詰まらないものになるだろう。奇跡で心を慰めるのではない、それでごまかそうというものでもない。奇跡は奇跡の物語自身で力を持ち、私たち「人」にとって必要不可欠なものである。
おわり