-自然の叡智と人間の才知-
愛・地球博は「自然の叡智」がテーマになっている。自然の叡智といわれるとそれは「知」に属していることであり、人間の「才知」とも近いものであると感じられる。しかしそれは本当だろうか?自然の活動に「叡智」という名前を付けたのは、もともと人間の才知の活動に対して誤解があって、その誤解をそのまま自然の活動に使ったと考えられるからである。
まず自然には叡智というものがあるのか、ということについて考えてみたい。
人間の「知」とは頭脳の働きである。人間が持つ情報は遺伝情報と脳情報があり、遺伝情報はDNAの上に書かれていて固定的ではあるが、これまで生物が誕生してからの経験がその上に書かれている。一方、脳の情報は原則的には誕生したときには何も情報がなく、生活をしたり教育を受けたりするなかで獲得する「後天的情報」である。
そして人間の才知がもし他の動物や植物の知恵を上回るとすれば、それは脳情報であり、それによって人間は他の生物を思うようにコントロールして人間万能の社会を作り上げている。
その人間がより劣る自然界の知を叡智と呼んで参考にできるのだろうか?そしてさらに踏み込めばおよそ知恵というものを持つのは生物に限定されており、山や川、大陸などの自然には情報がなく、従って「知」といえるものは存在しない。
従って、もし自然界に「知」というものがあるとしても、それは人間の知より劣るものであることは確かである。それは情報理論のような学問的な手法を使って、情報量やその伝達量、伝達速度を求めて比較することもできるし、あるいは現実に、人間がこの自然を知の力で完全に支配しているという歴史的事実から演繹してもよい。
それではわれわれが「自然に叡智がある」、もしくは「自然の叡智」というときの「叡智」とはなにを指しているのだろうか?ここから少し厳密に議論を展開するので、「叡智」とは「深遠な道理を悟りうる優れた才知」と定義して話を進めることにしたい。
まず第一には、自然界をつぶさに観察すると「自然の不思議」という言葉で表されるように、人間の科学で解明できないような不思議な現象に対して感じる尊敬の念であろう。その典型的なものとしてファーブルの昆虫記をあげることができる。彼は昆虫の生態や体の構造をつぶさに観察して、その巧みなシステムに驚嘆した。まさに自然の叡智を感じたわけであるが、昆虫の体も生体も長い自然淘汰の中で創造されてきた、DNAの情報の発言に過ぎない。つまり「叡智」とは言えないものである。
ファーブルの驚きや自然にあまり接していない人が自然の美しさ、自然の不思議に接したときに感じる驚嘆は素直に「自然の叡智」と表現しても良いだろうが、このことは人間の科学の発展がまだ不完全であることを示しており、そのうちにこのような意味での自然の叡智はなくなると考えるのが妥当だろう。
事実、すでに多くの分野でこのような意味の自然の叡智はなくなっている。19世紀までは原子力というエネルギーが発見されていなかったので、太陽がなぜあれほど長く、あれほど強いエネルギーを出し続けているのかは不思議の一つだった。でもキュリー夫人が原子核が変換すること、そのときに大きなエネルギーを出すことを明らかにしてから、普通の核融合反応としてとらえることができるようになった。
エベレストなどの神々しく素晴らしい山々を抱えるヒマラヤ山脈も、20世紀初頭、ドイツのウェゲナーが大陸が移動することを解明し、その昔、インド大陸が移動してユーラシア大陸と衝突した時にできたものであることを明らかにしてから、感覚的な神々しさは残っても科学の世界での神秘的な力は失われた。
すでに岩石や大陸の動き、火山などについてはその成因などがほぼ解明されており、さらにより複雑な生物界においてもDNAの発見と解明などがあって、最近では人体の解剖学の領域ですら、未知の部分はないともいわれている。
もう一つ、自然の叡智と呼ばれる内容がある。
それは、自然には「叡智」がないが故に「欲」もなく、欲がない調和した世界へのあこがれを叡智と呼んでいる場合である。人間の才知は、人間が才知がある故に持っている欲によって打ち消されている。もし人間に才知がなければ「本能的に存在する欲」以外のものは存在しない。
本能的に存在する欲は、個体と種族の維持に関するものであるから、たとえば人間はそれほど多くは戦争をしないだろうし、たとえ戦争をしても敵の子供まで皆殺しにするようなことはしないというのが心理学者などの結論である。つまり、人間の社会や行動の一部が醜く感じられるのは、人間の心理の問題であり、それは人間の才知の働きが欲や憎しみに転換したものである。
自然は才知がない。だから欲も憎しみもない。従って人間に欠けたものが人間には見える。つまり自然の叡智とは、叡智も従ってそれから生じる欲もない自然を人間が見たときに「ああ、私たち叡智があり、欲がなければ・・・」とうらやましく思う心が生んだ用語である。
ところで自然界は二つの作用でできている。一つは「力学」であり、一つは「競争の原理」である。地球そのもの、大陸、山、川、大洋、岩石、砂利など無機質のものはすべて力学が支配する。その世界は冷たく、美しいが力学以上のものもない。(ここで言う「力学」とは、まとまった物体に働く力(狭義の力学)、電子に働く力(電磁気学)、分子に働く力(化学、熱力学)などを総称している。「自然界を支配する一定のドライビングフォース」と表現しても良い。)
もう一つが生命界である。生命界は地球の誕生から遅れること9億年目に誕生したが、それでも生命というきわめて複雑な造作物のことを考えれば、9億年という期間は短いとも言える。そしてこの生物界は、約37億年、競争の原理だけが支配してきた。
たとえば、ここに2つの石があったとして、一つはかんかん照りで海の塩をかぶるところにあり、もう一つは涼しげな木陰にあり、冬の風も受けない。でもこの2つの石は決して動こうとはせず、互いに争いもしない。
ところが生物は違う。少しでもよい場所を占めるため、少しでも相手を倒して食料にするため、そして少しでも多くの子孫を残すために頑張る。単細胞生物や動物ばかりでなく、植物も住みやすいところに生息している植物は一般的に生存競争に勝ってきた種である。
生物が生存競争に勝つためには遺伝子の情報量を増やし、それを力にして他を圧倒することである。数10億年前のストロマトライト、数億年前の三葉虫やアンモナイト、そしてロマンといわれる恐竜もそれは同じである。
恐竜が地上で活躍したのは、単に遺伝子の情報量が多く、その力で巨大になり他の動物を圧倒して地上で繁栄したに過ぎない。暴力の化身なのである。そして人間自体も筋肉や運動神経は劣るが、優れた頭脳情報を元にして敵を圧倒し、こうして新しい暴力の化身として地上を支配している。
従って自然の叡智ということを人間の才知とは少し違う意味で肯定的に受け取っても、力学と競争の原理をそこに見ることができるのである。ある意味では醜い生存競争、自分だけが良ければそれで良いという自然の仕組み、それに対して叡智という美しい言葉を贈りたくなる人間、それは自らの知恵が自らの欲に汚染されていることに対するやりきれない気持ちなのだろう。
もし「叡智」というものがあるなら、それを持っているのは人間だけである。そして人間が本当にその叡智が自然界に価値のあるものになるためには、自然の叡智にその範を求めることではなく、人間自体が自然淘汰に勝つために作り上げてきた才知を、新なる意味での叡智に消化させることができるかにかかっている。
このシリーズが順調に続くなら、才知を叡智に転換することが可能でありか、それはどのような道筋をたどるであろうかについての考察を加えて行きたいと思う。