(学問と科学の意義を問う)
征服されるアジアとアフリカ
征服されるアジアとアフリカ
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパは「文化」と「科学」の花が開いた。多くの芸術、文学、哲学が誕生し、蒸気機関を中心とする産業革命が飛躍的に生産量を増大させた。そして、その力はやがて軍事力となり、軍艦や鉄砲となって諸国民を圧迫していったのである。
それはすさまじいものだった。19世紀末、アジア、アフリカの広大な土地は、エチオピア、タイ、そして日本を例外としてすべてヨーロッパとアメリカの植民地となった。南アフリカ、オーストラリアも同様である。
(汚いヨーロッパ。アジアとアフリカの富を横取りする)
知は力である・・・そして知は人間を人間たらしめるわけだから、知で獲得できる力は高尚なものの様に感じられるが、どうやら、それは事実とは異なるようだ。
人間の歴史は「知は暴力である」ということをはっきり証明している。そしてそれは私達自身が支持している。2003年に始まった醜悪なイラク戦争だけではない。
メソポタミアに出来た人類初めての都市と国家。そこでは早速、権力による暴力が始まっていた。人類が造った比較的規模の大きい都市として有名な「エリコ」ではかなり早い時期から、王様が死亡すると大勢のお付きが殉職している。王の墓に殉死した人たちが埋められていることから分かる。
そして、古代エジプトのファラオから始まった権力者たちは、知を持ち力を持っていたが、それは人間的に、人道的に使われたのではない。やや「やりたい放題」という表現が適切であり、それはその後の歴史に継続されている。
ギリシャ時代にはプラトン、ソクラテスなどの多くの立派な哲学者が出て、人類の知能の使い道について大きな業績をもたらし、「精神活動」という学問分野を開拓した。でもギリシャ時代は悲惨な征服の歴史で閉じる。
(プラトン)
ギリシャの北方のマケドニアにアレキサンダー大王という武術の天才が出現した。アレキサンダーはマケドニアの王子であったころギリシャの哲学者アリストテレスから哲学や政治を学び、学識、識見ともに優れていたと言われる。
でもその学識と識見は「戦争を勝つ」という彼の天才的な才能によって暴力に変換されている。
アレキサンダーの父親であるマケドニア王フィリップ二世はやはり英傑であり、ギリシャの都市国家として栄えていたテーベのエパミノンダスに戦術を学び、後にマケドニアの「長槍密集歩兵集団」と恐れられる歩兵と強力な騎兵を組み合わせた軍隊を作っていたが、そこに類い希な「学識」を持ったアレキサンダーが登場したのである。
フィリップ二世が暗殺された後、アレキサンダーは三万の歩兵と五千の騎兵を率いて、ペルシャへ進軍し、ダリウス三世に率いられたペルシャ軍をイッソスの戦いで粉砕する。アレキサンダーの数万の軍に対して、ダリウスの軍は数十万と言われているが、アレキサンダーは自ら軍の先頭に立ち、ダリウスへ切りかかる。ペルシャ軍は一気に崩れた。
アレキサンダーの大帝国の出現である。私はこの戦いを高等学校の歴史で知ったとき、私の血が沸き立ったのを覚えている。何という素晴らしい戦いだ。アレキサンダーは素晴らしい!と私は感激した。
(イッソスの戦いに臨むアレキサンダー)
多少の失礼を承知の上で言うが、アレキサンダーをサルの群を率いるボスザルとすると、群を安全にするばかりか周囲の群まで統合したのだから、これは飛び抜けて優れたボスザルであったといえよう。ボスザルなのに、歴史はアレキサンダーを賞賛する。もちろん偉いところはあるが、いくら偉くても暴力で他国を支配してはその偉さは認められない。
ジュリアス・シーザー(カエサル)はローマから今のフランスやドイツのライン川流域の広い地域を指す、「ガリア」を武力で平定し、反シーザーであったポンペイウスをエジプトに破って、大ローマ帝国の礎を築いたのである。ローマは歴史上に現れる大帝国の中ではなかなか組織的な立派な帝国であった。オオカミに育てられた双子の兄弟によって国が建てられたと信じられており、市民が兵士をかねて、重装歩兵集団を作った。占領した道路には組織的な軍事用の道路を造り、治水、建造物などの進歩もあった。
(ジュリアス・シーザー)
それでもジュリアス・シーザーもまた、軍事力でその周辺の国を占領したのは、アレキサンダーと同じである。占領できた理由は「説得」ではなく、「暴力」である。
チンギス・ハーンが怒り狂ったのは、友好的に商業を進めようとしたフワーリズムが、チンギス・ハーンの送った百人もの商隊の全員を虐殺したことにあった。怒り狂ったチンギス・ハーンはシル川を渡り、カスピ海のほとりに住むフワーリズムの軍を全滅させる。
(「モンゴル軍が来た.壊した.焼いた.殺した.奪った.去った.」の
張本人であり偉人のチンギス・ハーン)
そこまでは襲われた群が仕返しをするようなものであったが、チンギス・ハーンはそれでは止まらなかった。中央アジアを武力で平定すると、アラブに侵入、北インド、カスピ海、中国、中部ヨーロッパにまでその軍を派遣した。
十八世紀にはナポレオンがフランスに登場する。コルシカ島に生まれたナポレオンはアレキサンダー、シーザー、チンギス・ハーンほどには家柄が良かったわけではない。十歳でブリエンヌの兵学校に入学し、その才能を認められてはいたが、背も低く風采もあがらない。あだ名は「ワラくず」であった。
二十一歳から戦いの指揮を執ったナポレオンは、ツーロン、マレンゴ、アウステルリッツ、ボロジノと全戦全勝し、皇帝になりほぼ全ヨーロッパを席巻する。フランス人は今でもナポレオンが好きだ。フランスを一時的にでもせよヨーロッパ一にした英雄である。多少失礼な言い方ではあるが、フランスの群のボスザルとしては良いサルである。ナポレオンを描いた多くの絵画があるが、いずれも誠に格好が良い。
(アルプスのナポレオン)
ナポレオンは格好良いし、ある意味で歴史を作った人物だ。だから「尊敬」されている。そしてその尊敬の理由は「暴力を使うのがうまかった」事による。
最後に歴史上に登場する有能なボスザルは、ヒットラーである。オーストリア生まれのヒットラーは第一次大戦の敗戦とそれに続く戦勝国からの賠償金の支払いで疲れ果てていた、ドイツ国民にこう叫んだ。
「ドイツを、ドイツ人の手に!ドイツのものはドイツに!」
生活に疲れはてていた人々はまるで催眠術にかかったように、ヒットラーに付いていく。アレキサンダーの長槍密集歩兵軍団、ジュリアス・シーザーの重装歩兵集団、チンギス・ハーンの騎馬隊、そしてナポレオンの砲兵、最後に登場したのが、ヒットラーの機甲師団による「電撃作戦」である。
人類の歴史は多くの戦いの天才を生み、彼らは歴史家によって「英雄」「英傑」などの尊称を送られている。人類は国家を作ってからは、膨張主義に変わり、群を構成する人の数は増大し、その数を背景にして大きな力を発揮するようになる。国家が大きく、その指導者に軍事的な才能があれば、他国を圧倒して国土を広げ、その分け前を王族や国民に分け与えた。群を守るための暴力は、徐々に変質していき、生物界に於ける人間の存在価値は少しずつ低くなっていったが、そのことにあまり多くの人は気が付かなかった。ヒットラーは「ドイツのものはドイツに!」と叫んだが、それは「人の国のものでも、ドイツに!」と言うことであった。
知は力である。しかし、その力は暴力として発揮される。そして一部の人が英雄となり多くの人が犠牲となった。私達は学問や科学の良いところだけを見ようとして、その目的としたところを切り捨てている。とても学問や科学が人類の福利に貢献しようとしているとは見えない。
(暴力として発揮されている知)