「神は東方のエデンに一つの園を作られ、見て麗しく、食べるによいすべての木をそこに生えさせた。一つの川がエデンから発し、国を潤し、そこで分かれて四つの川の源流となっていた。神は土からすべての地の獣と天の鳥を造り、それを人のところにもってきて名を付けさせた。しかし鳥や獣は人の助け手とはならなかった。そこで神は、寝ている人の肋骨を一つ取り出し、それを一人の女に作り上げた。」
キリスト教の原典の一つでもある「旧約聖書」には人類の誕生が、「エデンの園」の伝説で美しく書かれている。地上に人間が誕生したのは、川の畔であり、そして、そこは木の実や花、そして多くの動物達が遊ぶ「地上の楽園」でもあった。そんなに美しく、何の不自由もない理想の「エデンの園」でも、最初に生まれてきたアダムは幸せではなかった。それは自分の伴侶がいなかったからで、そのことを聖書では、
「しかし、鳥や獣は人の助け手にはならなかった」
と書き記しているが、人間という生き物は一人では生きてはいけない。食べものが豊富で生きるのには困らず、そのうえ鳥や獣がやさしくしてくれても、それでは人間は生きれない。異性の伴侶が必要なのだと旧約聖書は言う。
そしてイブが誕生した。
「イブ」という名前の語感だけで魅力的な女性のように思える。事実、そうだったらしいし、女性が一人しかいないのだから比較のしようもなく、アダムは幸せになった。女性がいないと幸せになることはできない。これはアダムでなくても怪物フランケンシュタインでもそうだった。フランケンシュタインという名は怪物を創生した医学博士の名前であるが現在ではフランケンシュタインというと怪物の代名詞だ。怪物は自分の生みの親に、「わたしは醜い。伴侶もいない。どうしても私の伴侶を作ってくれ」と悲痛な叫びを上げている。
ところで、アダムが生まれた頃、地球はまだ気候が安定してはいなかったので、しばしば大きな洪水に見舞われていた。旧約聖書でも洪水の物語が多いが、
「水が引いて一カ所に集まった」
とある。そして、陸地ができ、そこに「エデンの園」ができた。
ここで史実に還ってみよう。
人間が地上にその姿を現したのは、ずいぶん前の事であるが、紀元前一万年前までは「ピュルム氷河」と言われる氷河が地上を覆っていた。氷河時代は大げさに言うと、世界中が氷づけになっているような状態で、陸地の多くは水が凍って、その氷河が陸地を覆っていた。
身を切るような寒気!とても人間が活躍できる環境ではない。エデンの園は生まれることはできない。
紀元前一万年になると地球は徐々に暖かくなってくる。この大きな気象変動を「ヤンガードリアス」というが、陸地の上に横たわっていた氷河は後退して、海の水となって行く。氷河の下の埋もれていた陸地が顔を除かせ、カチンカチンに凍っていたあの大地が柔らかい土に変わっていく。まさに旧約聖書、「創世記」に書かれた、
「水が引いて一カ所に集まった」
のである。
気候が穏やかになり、時には熱いくらいになった。陸地は拡がり、植物が繁茂し、動物の急激にその数を増していった。それにつれ、人類の数も増え、その集団は徐々に大きくなって、原始的な都市ができあがっていく。
大きな川が流れ、平野が拡がっているメソポタミアでは、その河畔に都市ができた。紀元前5千年、メソポタミアの下流に「ウル」と呼ばれる大きな都市が出現した。都市は少しずつ大きくなり、やがて「ウル王朝」と呼ばれる王国になった。もちろんそこには王様が君臨し、美しい妃や多くの召使いにかしずかれて生活していた。
人間の集落ができて間も無いというのに、もう王様の権力は大変なものだった。「ウル」の遺跡の発掘の時に、王様が死んだときの墓が見つかった。その墓には死んだ王様の遺体の他に、兵士、侍女、御者、そして音楽士などの死体が63も葬られていた。
当時、死んだ王様にどうしても必要だった考えられたものに、王様を護る兵士、日常の世話をする侍女、出かけるときに馬を引く御者、そして音楽士だ。音楽がなければ楽しくない。この63体の死体は王様が死んだときに殺された「殉死」の人たちであった。この様な殉死の風習は人間の集落が大きくなり、やがて「ウル」の様な大きな都市ができ、国家ができると、その頂点に立つ人がだんだん特別な人物として扱われてきたことを示している。
それでも、人一人が死んだからと言って、死んだ人の世話をするのに63人も殺さなくても良いように思われる。それは人間の罪だ。
このころから人間は少しずつ「罪」を犯すようになってきた。おそらく、殉死が行われるのだから、日常的にはそれ以上の不道徳も行われていただろう。王様は多くの側女を持ち、豪華な生活に明け暮れ、農村は貧困と飢餓に泣いていたであろう。殺人や強盗、そして詐欺なども「人類初」の悪党がいたと思われる。
それでも、それからしばらくは穏やかな日々がこのメソポタミアの河畔にも訪れていたが、紀元前3,500年になった大洪水が起こった。洪水はゆっくりゆっくりと襲ってきて、毎日毎日、チグリス・ユーフラテスの二つの川の水面があがり、やがて河畔のメソポタミアの集落は洪水の下に沈んだ。はじめは大した洪水にも見えなかったのに、しばらく時が経つと、それはすさまじいほどの洪水の姿を現したのだ。「ウル」はもちろんの事、都市は滅び、小高い丘陵も沈んだ。
「ウル」の遺跡の発掘調査ではこの洪水の後がくっきりと残っている。この洪水で「ウル」の町には、4メートルにも及ぶ土砂が堆積した。4メートルというと洪水が一時的に起こったのではなく、長い期間にわたったものすごい洪水であったことが判る。現代のどんな大きな洪水でも、現代から6千年も経ってその後がこれほどクッキリと判るものはもちろん無い。
その洪水の後、しばらくは人の影は見えない。一面の泥の海であった。
しばらくして、その泥の上に草が生え、樹木が生い茂り、動物がどこからともなく帰ってきた。川が4つに分かれ、海に注いでいる辺りの丘陵に、人間の姿が見える。
生まれたての、アダムとイブである。
「創世記」を書いたユダヤ人の祖先はこの洪水から立ち上がる人間の姿を、「人類の最初」としたのである。やがて、「ウル」にも昔の賑わいが帰ってきて、集落ができ、都市が建設された。あの大洪水の前と全く同じことが、また行われ、都市は王国となり、王様が権力を振るう。王様が死ぬと、また多くの人がそのお連れとして殺され、「殉死」した。
「どうして、人間というのは、こうも懲りずに悪いことをするのだろう」
と神様は嘆いたと書かれている。旧約聖書では、人類の最初にアダムとイブが生まれ、それから何世代もたって「ノアの大洪水」が起こったと記録されているが、神様は多分、アダムとイブの前に起こったあの大洪水もご存じであったに違いない。
「ウル」を滅ぼした紀元前3,500年の洪水の後、700年は穏やかだったメソポタミア地方に、また大洪水が起こった。今度の洪水は前のように、徐々に川の水位が上がって、その水が浸水してくると言うようなものではなかった。旧約聖書の「ノアの洪水」に記録されているところに因ると、激しい雨が毎日毎晩、降り続き、それが40日続いた。激しい雨に人間も動物も逃げることもできずに次々とおぼれ死んだ。
「神様が怒って、人間を罰したのだ」
激しく荒れ狂う空を見て、人々はそう感じた。確かに、心やさしかった人間は少しずつ間違ってきて、王様を作り、その王様が死ぬと道連れに多くの人を殺すまでになっていた。それでも、人間が悪いなら人間だけを殺せばよいのに、神様は動物も一緒に殺してしまう方法を採られたらしい。
このとき、旧約聖書によると、信仰熱いノアは洪水のあることを神様からこっそりと教えてもらい、箱船を造って自分の家族と、種を保存するための動物を一番(つがい)づつ箱船に乗せた。紀元前2,500年の事である。
この2回目の大洪水の後、聖書を著したユダヤ民族は、記録の残っている「歴史時代」に入る。そして「歴史時代」の最初の人物、ユダヤの族長、アブラハムは「ウル」からユーフラテス川の上流の「ハラン」に一族を連れて移動した。「歴史時代」に入ったユダヤ民族の足跡は良く記録されているが、その後、ユダヤ民族は族長に率いられて、地中海沿いに南下をして、死海のほとりに住むようになる。
この死海の畔には、「エリコ」と言う名前の都市があった。古代の遺跡の発掘が進んでいたある時期には、メソポタミアの「ウル」が人類最古の都市と言われていたが、「エリコ」の発掘が始まるとこの都市こそ人類初めての都市であると考えられるようになった。年代では、都市としての「エリコ」ができたのは、アダムとイブの生まれる、実に4,000年前である。
旧約聖書の創世記に書いてあることを詳しく調べて、それから厳密にこの世ができた時を推定した人が居る。それによれば、この世は紀元前4,400年10月23日の午前9時に、突然、神によって造られた。まさに今から6千年前、第一回の大洪水、「エデンの東」、そしてノアの大洪水の頃である。
しかし、「エリコ」は旧約聖書の舞台となった、メソポタミアの「ウル」から遠く離れていた。旧約聖書の著者は「エリコ」を見たことがなかったのであろう。「エリコ」にも国家があり、王様も居たし、墓も見つかっている。しかし、殉死は見あたらない。「エリコ」の墓は丁寧に宗教的儀式に従って葬られている。死んでその墓に葬られた人の頭蓋骨には粘土がかぶせられ、眉、瞼、鼻、口、耳が形づけられ、その人の生前の面影を残す工夫が施されていたのだ。目の孔には貝殻がはめ込まれ、その真ん中には瞳までが刻まれている。
著者はアダムとイブ、そしてエリコとウル、さらには多くの洪水伝説、そしてやがてモーゼが現れ、イエス・キリストの誕生となる一連の人類文明が花開きだした頃、人類には大きな矛盾と悩みがあったと感じている。それは「人間とはかくも醜いものか!」という驚きである。それまで小集落で生活をしてきた人間は、それが本来持っている酷く悪い欠陥に気づかなかった。自分本位であるし、悪口は好きだし、好きがあればいじめもする。動物を殺すばかりか、人間同士も殺し合う。さらに王様が死んだというだけで侍従は軒並み死ななければならない。どう猛な動物でもそんなことはない。
人間は欠陥動物だ、と悟ったのではないか。そしてその苦しみは、エリコ、ウル、大洪水を経て、モーゼに至る。そして4,000年にわたるユダヤ民族の苦しみがイエス・キリストによって解消される。新約聖書以来、2000年、新しい聖書が現れていないことがそれを示す。
欠陥のある人間を生き返らせるためにはなにが要るのだろうか?著者には旧約聖書の詩編がそれをよく著わしていると感じる。そこには人間の苦悩、人間の矛盾が渦巻いている。そしてそれから人間が救われるのはなにか?それは、「正しい幻想」を構築することなのである。
そこで類い希なる頭脳か、あるいは神様に近いイエス・キリストは「正しい幻想」の王国を創造した。それは人間の心、欠点、長所のあらゆるものを含み、そしてそれを哀れみ、愛する心をもった類い希なる幻想であった。人類はそこで救われ、それから後、2000年にわたってイエス・キリストのもとで人間は生活を行ってきた。なんと素晴らしいことか!
目の見えない人、肉親を失った人、絶望にうちひしがれた人、どんな人もイエス・キリストに救われて、その人生を幸福に過ごすことができた。どんなに解析的な力があっても、どんなに論理的であっても、イエス・キリストの矛盾、その真実を上回ることは出来ない。人間には幻想がいる。そしてその幻想は人間が幸福になる幻想でなければ存在価値はない。
なぜ、イエス・キリストがそれが判ったのだろうか?神の子だったからか、あるいは類い希な頭脳と愛情を持っていたからか?それは全く不明である。なぜ不明かというとイエス・キリスト以来、彼より素晴らしい人が出現していないから、彼を評価することもできないのは当然である。素晴らしい野球選手、素晴らしい学者を、ポンコツな野球選手、ポンコツ学者が批判も、ほめることもできない。それと同じである。
現代、その正しい幻想が失われつつある。私たちの頭脳は愚かで思考力がない。それであれこれ考えるから環境問題や年金が酷い状態になるのだろう。人間が欠陥動物であることは明らかである。だから、人間にはその欠陥を修復するための幻想がいる。自分の人生を楽しく、有意義に生きる幻想を提供することができる、それが偉人というものである。