企業の不祥事と教育

 雪印乳業が売れ残った腐りかけの牛乳をそっと回収して、食中毒事件を起こした時、マスコミの追求に疲労困憊した社長がエレベータに乗り込みながら、

「私も寝不足だ!」
と叫んで、雪印グループはその信用を地に落とした。

 三菱自動車(正確には三菱ふそうバストラックという子会社)がパジェロのブレーキ欠陥やトラックのハブの設計ミスを隠して死亡事故まで起こしたとき、私は2,3のコメントをした。

1) 三菱自動車の体質問題
2) 毎年8000人の死者と120万人の負傷者を出しながら、安全に注力しない自動車会社
3) 不祥事のもとは現場にあるのにトップに頭を下げさせて終わりにする社会

 三菱自動車の不祥事は、「自分の製品を買ってくれたお客さんを犯人にした」という点で他の不祥事とは違う意味をもっていた。不評を買った雪印乳業の社長でも、さすがに「牛乳を買ったお客さんが古くなってから飲んだから客が悪い」とは言わなかった。

 三菱自動車はパジェロやトラックの欠陥をすでに知っていながら、パジェロの時には「主婦がブレーキを良く踏まなかったから」といい、トラックの時には「運転手が整備を良くしなかったから」と言った。自分の責任と知っていて、自らの車を買ってくれた客の責任にする神経は相当なものである。

 ところで問題はこのような事件がなぜ続くのかということだが、ここではその一つとして教育の問題、それも一流大学の工学部や大学院の教育の問題を取り上げたい。

これからお話するのは、実に恐ろしい話である。

 国立大学、特に工学系の国立大学ができたのは明治19年、現在の東大工学部の前身が創立された時である。当時、設立に力を注いだ大島は、「人口においてヨーロッパを上回っているアジア諸国がヨーロッパの植民地としてあえいでいるのは学問の力が不足するからだ」と言った。

 おそらくは大島の演説は間違っていたのだろう。

 その後、東大の工学部を中心とした一流国立大学は日本を植民地化から守り、先進国の仲間入りをするために頑張った。そして太平洋戦争という悲惨な体験はしたが、ともかく植民地化を免れ、戦後、工業で高度成長を遂げて世界でも有数の国になった。

 大成功だった。

 「先進国に追いつけ追い越せ」という号令の中で、一流国立大学では学生にともかく工学を教えた。力学、計算、材料・・・自然の原理を応用して社会を富ませる学問をたたき込んだのである。

 厳しい入学試験、難しい問題、そして卒業論文、さらに高度成長期から増えた修士課程の大学院を卒業した学生が日本の中核的技術を作る。かくして日本の産業は世界一になった。

 国立大学はその経費の大半を税金で運営される。学生が払う学納金は年間約50万円に過ぎず、それは学生に費やす全経費の数分の一に過ぎない。

 なぜ国民は比較的恵まれている国立大学の学生にかくも厚い保護をするのだろうか?一流国立大学の学生のほとんどは大企業に就職し、準風満帆な人生をおくる。なにも税金を投入しなくても無利子で学資を貸し付け、出世払いでもよいのである。

 しかし、一流国立大学の学生が奉仕の精神を持ち、若い頃、国民から援助してもらった学費の何倍かに相当する豊かさを国民に還元するのなら、学費を税金で出して良い。その場合、国民は等しく、この優れた人たちの恩恵を受けるだろうからである。

 私は会社に勤務していた頃、国立大学を出て私の研究所に入ってくる技術者に「君たちは税金を使って大学で勉学してきたのだから、社会に奉仕しなさい」と言っていたが、当の本人は何を言われているのか判らず、キョトンとしていた。

 そして私が大学に移り、国立大学の先生となって教鞭を執るようになり、「君たちは15週2単位のうち、一日サボるとどのくらいの税金泥棒になるか?」という問題を出したら、その意味がわからない学生が多かった。

学生の多くは、自分たちの学費が税金から出されているという認識はなく、ましてその税金が貧しい人も含めた国民が負担していることなど学生にはまったく無関係のことなのである。むしろ、「我々は優秀なのだから、税金をもらうのは当たり前」という感覚である。

 教育基本法第一条には、教育の目的の第一が人格を高めることとされている。学業より人格、というより学業は人格を磨く一つの手段として位置づけなければならない。だから一流国立大学に学ぶ学生は、自らの学費の出所もわからず、自分だけの為に勉学するなどまったくナンセンスなのである。

 これが、大学院ともなればさらにエリートが進学する。それぞれの専門を持ち、かなりの力を有するようになる。そして卒業後もほとんどは社会の指導層になっていくのである。

 その大学院の教育はすでに崩壊している。太平洋戦争後、日本が悲惨な道をたどった反省から大学における教育が深く議論され、教育の目的が人格を高め、民主主義の意味をよくわかり、実践できる人間を育てるように定められた。

 しかし、大学院で人格教育や社会教育が行われることはほとんどない。そして、それほど立派な学生はすでに教育が要らないほど成長しているかというと全く反対である。

 一流国立大学の大学院に進学する学生は能力が高い。多くは小学校から成績優等でチヤホヤされ、社会は自分を中心に回っていると確信している。そして日常的なわがままぶりは大変なものである。

 詳細は大学内のこと故、あまり書きたくないが、「地球は自分のために回っている。人に迷惑をかけることなど問題ではない。力で押し切れるところは押し切る」ということに徹している。

 2.3の例を挙げよう。

 大学院に入るとどんなに勉強しない学生にも「優」を出す必要がある。それは講義の数が多く、学生は無制限に「優」を出す先生の講義へ殺到すること、そのような慣習が長く続いたので、企業は大学院生を採用するときに「優」以外の成績のついた学生を取らないことが原因している。

 だから、先生の方も学生の就職を妨害することはできないので、どんな答案にも「優」をつける。

 その結果、就職の時に学生を企業に推薦するのだが、「成績順」をつけることができない。みんな同じ成績だからである。そこで仕方なく、大学院の成績ではなく大学の成績や、入学試験の点数を参考にして順位をつける。だから大学院に入ってから勉学して優れた成績を納めた学生でも、入学試験の成績が悪ければリベンジはできない。

 修士論文審査でもおかしなことが起こる。

大学院修士課程の学生は2年間の研究指導を受けて修士論文を提出する。修士論文は指導教官がジックリと読んで採点するシステムになっているが、学生は指導教官が自分の研究室の学生を不合格にすることができないことをよく知っている。

 だから、修士論文は「教授が成績を提出する前日の夜」に出してくる。そうすると教授は100ページにわたる分厚い論文を読む時間がなく、かつ不合格にできないから合格のサインをせざるを得ないのである。

 学生が自らの合否を決め、教官には成績をつける自由がないというのは、日常的な指導でも同じである。

日本の修士過程は研究を中心に教育するが、それは大学院生が自らの研究をするのではなく、教育として研究をするのである。つまり大学院生は「学生」であり、まだ研究をした経験もないので、教官から研究の手法や考え方を学ぶ段階にある。

 このことは、ちょうど、医師を考えるとわかりやすい。まだ大学で医師の勉強をしていて医者の国家試験も通過せず、インターンも終わっていない医師の卵が現実に患者の診断をしたり治療をしたりしてはいけないことと同じである。

 でも大学院生は自分がしたい研究をする。それは研究者でもない学生が「ままごと」をするようなものであるが、学費を払い、しばらく社会に出るのを遅らせて遊びたい、どうせ遊ぶなら「研究をしている」と言った方が格好が良いという発想である。

 大学院生の好き勝手な研究ほど酷いものはない。レベルは低く新しい研究をしているような素振りをしても、実際には人を騙すようなものである。そしてそれを咎めると、研究室の数が多いので、研究室を希望して入ってくる学生が激減するから、先生は怖くてできない。

 もちろん、このような雰囲気の中で人格教育はできないし、立派な考えを持った学生が育つはずもない。かくして自分本位の大学院生が一流大学の大学院にはウヨウヨすることになる。

 さてやがて就職の時期が来るとリクルーターの方が大学にお越しになり、学生を採用していく。その学生がやがて雪印の社長になり、三菱自動車の重役となる。何が起こるかの予想はそれほど難しくない。

 あれほど自分本位だった学生、それは若気の至りではなく、心の底から頭脳だけで人間の価値を決める習慣しか持たない若者なのである。中学校の頃から成績が良いことが第一という生活を送り、そのまま卒業するのである。本人が錯覚するのはやむを得ない。責任は教育をする側にある。

 私はそれでも屈しない。社会に出す学生の人格は社会が健全になるための要(かなめ)である。

私の研究室では「工学を学ぶ前に人間であれ」と教え、その具体的な求めとして「自分で約束したことは、守る」という原則を教えている。本当は一流国立大学の学生だから、もう少し高度な倫理を学ばせたいが、これで精一杯である。

 しかし、このこともほとんど守られることはない。そして守らせることもできない。大学院生に与えたテーマを最初は喜んでやっていたと思ったら、壁にぶつかったらすぐ止めたいと言う。チームを組んで研究をさせても、自分がイヤならやらなくなる。

約束は守らない、大学に来ない、修士論文は不合格・・・それでも私は合格のサインをしなければならない。仮に私が不合格としよう。直ちに「指導を怠った」という訴訟が始まり、私が負ける。

 なぜ負けるかというと原理がある。現在の大学は多くのことが非常識に運営されている。その中で教育をしている私たちは正常な行為が不可能になっている。だから叩けば埃(ホコリ)はでるのだ。

 たとえば、大学の教員の平均勤務時間は11時間という。それは教員が研究や教育が好きで長い時間勤務しているとも言えない。長い大学施策の中で、徐々に貧弱になる大学の運営体制の歪みの多くが組織的には弱い教員にしわ寄せが来ているからである。

私は毎日、モップを持って教授室のふき掃除をする。研究の為に使った100円の伝票も処理しなければならないし、学内の委員会は日時の調整をせずにダブって開催される。

教育をし、学問をし、掃除をしていると11時間になる。事実、土曜日に連絡が付くのは大学の先生であり、企業の人にはまず連絡が付かない。

 それでも私は頑張る。

食中毒事件を起こした社長が「患者は苦しんでいるかも知れないが、私も寝不足だ!」と叫ぶ、そのことと全く同じ感覚を持つ学生の中で毎日を過ごし、「それで良いじゃないか」という社会の雰囲気の中でも、私は頑張る。

企業の不祥事、教育の高い人ほど悪いことをする社会、それを何とか食い止めるのは私たち教員の努力以外には無いからである。

どんなに劣悪な教育環境の中でも私は立派な学生を卒業させることに全力を挙げる。そして確かに私の期待にそって、約束を守り、学業を修め、人のことを考えて行動できるように、立派になって卒業する学生はいるのである。

私はその学生の為に頑張る。

最後にこの文章の中で「一流国立大学」と言う表現を使ったことについて少し解説をしておきたい。学問は、本来、それを通じて人格を高め、約束を守ったり、自分が損をしても他人の為に尽力できる魂を育てるのに役立つはずである。しかし、残念ながら、学問は約束を破っても言い訳ができる力を養ったり、人の為のようにして自分の利得を得る力をつけるのに役立っている。

だからここで「一流」と書いたのは褒め言葉ではなく、蔑視として使った。それは私のように学問を職業とする身にとっては屈辱だ。学問は経験せずして経験を身につける確信である。学問は書物で、辛い人、哀しい人が我がことのように感じるはずのものなのである。

終わり