近代工学考


はじめに

 近代工学が発祥して300年を経過しました、現代の工学の専門家の胸にズッシリと響く言葉が2つあります。その一つが、かのガリレオ・ガリレイが宗教裁判でつぶやいたと伝承される「それでも地球は回っている」という言葉、もう一つは、近代科学の意味に関するフランシス・ベーコンの「工学は自然の原理を応用して人類の福利に貢献するものである(意訳)」という定義付けです。この2つの言葉は300年の間の近代工学の進歩の過程で、ある時は進歩を加速し、ある時は抑制してきました。そして現代の私たちこそが、この2つの言葉の意味をきわめて真摯に深く考えなければならないところに立っているのです。

 工学を学ぶ入り口に立ったみなさんは、歴史を振り返ることによってこれらの巨人達の肩の上に乗り、そして遙か彼方の行く末を見ることができるのです。特に21世紀の日本は環境や資源、そして人生そのものまで激動の時期を迎えようとしています。そこで求められるのは単なる工学の知識だけではなく、広く深い関連知識が自分の人生を支えることになるでしょう。


1. 倫理から見た近代工学の進歩

1.1.  人間の精神の崩壊

 近代科学が最初に遭遇した社会との間の大きな衝突はキリスト教世界観の破壊でした.既に15世紀にはデカルトの還元論にもとづく自然の観察の成果として、ガリレオやコペルニクスの地動説が唱えられ,それまでのキリスト教の世界観に大きな打撃を与えていました.事実は事実なのだ、われわれは自然をありのままに観測するのだ、それがなにが悪いのだ,という近代科学の強い意志が当時の書物からは感じられます[1].

 19世紀に入って、キリスト教世界観はダーウィンの進化論で再び打撃を受けます[2].ガリレオの地動説はこの地球が宇宙のごく一部であり,それ故に人間や特定の民族が神に選ばれたものではないかも知れないと言う疑問を生みだし,さらにダーウィンの進化論は人間がサルから進化したものであることを明らかにして、動物と人間の連続性を示したのです。
 
 聖書の具体的記述に触れるこの進化論がヨーロッパを中心とした精神界に大きな影響を与えたのは当然でしょう。20世紀に入ってもダーウィンの進化論教育に対するキリスト教の側からの疑問は提示され続けられました。一例として、特にキリスト教の信仰の篤いアメリカ中部で起きた教育裁判があげられます。中学校で生徒に進化論を教えた罪で裁判に掛けられたスコープス(John T. Scopes1900-70)は、裁判で有罪判決を受けました。
 
 この事件の一般的な評価は、キリスト教側の学問に対する無理な攻撃とされていますが、むしろ科学がもたらした精神界への打撃について、科学側及び教育側の充分な研究と配慮が不足していたと考えるのが妥当でしょう。科学はベーコンの言ったようにあくまでも人類の福祉に貢献するものですので、それは物質社会のみならず、精神的影響においても同様であるからです。

図 1 DNAの構造模型の前で談笑する若きワトソンとクリック

 さらに、生命の尊厳に対する影響という意味では、ワトソンとクリックのDNA構造の解明のほうが進化論より大きいでしょう。DNA構造の発見というものを科学的に解釈すると、「生物と無生物の境界はない」もしくは「命の尊厳というものはない」ということを明確に示しているからです[3].従って,DNA構造の発見が,遺伝子工学などの工学分野に発展し、それがクローン人間などの倫理問題を招くのはある意味で当然の帰結でもあります.

 近代科学は意図していたかどうかは別にして、ガリレオ,ダーウィン,そしてワトソンとクリックと続く発見によって人間の精神を破壊しつつあると言えます。


1.2.  人間機能の崩壊

 産業革命直後に起こった人口の都市への集中,労働者階級の誕生はマルクスの理論を経てやがて共産国家を生むに至りました.ある意味では社会的進歩とも言えるこの動きも,産業革命と蒸気機関の発明による自働機械と新しい力の誕生による工学の帰結でした.それまで人間の筋肉の力,またはせいぜい家畜や水車の力しか利用することができなかった人類に巨大な力を与え,その力で自動的に動く機械が動くことにより、産業は飛躍的にその生産力を高めたのです。その結果として農村が囲い込まれ、工場群が誕生し,資本家と労働者など新しい社会階級が生み出されました.

 大規模生産工場の出現は悲惨な炭鉱労働者や都市のスラム化などの社会問題も同時に引き起こしましたが、生産量は増大し、生活程度や衛生状態は飛躍的に向上し、人々は文化的生活を享受できるようにもなったのです。しかし、産業革命が大きく人間の生活に影響を与えたのは「人間から筋肉という機能を追放した」と言えます.筋肉機能の崩壊は,その後,機械工学、制御工学などの高度化により徐々に進み,最近の産業では既に若い男性の筋肉を必要としないまでに至っています[4].

 今世紀に入って人間機能の崩壊はさらに進み,電気工学、電子工学、材料工学の発展により家庭が電化され主婦は辛い家庭労働をしなくて良くなりました。主婦の労働は女性解放と密接に関係していますし、この問題は現在進行形でもあるので善悪の評価は困難でありますが、洗濯や掃除、食事の準備という,人類にとって極めて価値の高い主婦の労働の機会が減り、女性のもつ優れた人間としての価値が喪失しつつある点は見逃せません。

 そして人間機能の崩壊の最終段階として現在進行中なのが、コンピューター,インターネットなどの発展に伴う情報工学の発展と,それによる頭脳労働の追放でしょう。電車の駅の切符きり、銀行の窓口の支払いなどの単純な頭脳の機能を発揮する職業はすでに追放されつつあり,情報革命の進行は徐々にインテリ層の仕事を奪っていくでしょう。現在でもワープロの発達で漢字が覚えられなくなり、電卓が便利になって二桁のかけ算も思うようになりません。より複雑な頭脳の活動は徐々に崩壊し、感受性も乏しくなる可能性があります。

 このように、工学は、最初に屈強な男から筋肉という機能を、次に女性から愛情という機能を、そして最後に人間が人間たるゆえんと言っても良い頭脳の機能を奪いつつあります。すなわち、現在進めている工学はまさにまっしぐらに人類からほとんどの機能を奪わんことに熱中しているように見えるのです.人間が体に備わっている本来の機能を発揮することは、人間にとって苦痛であり除かなければならないのでしょうか,額に汗をかいて働く生き甲斐を感じることは奪わなければならないほど苦痛を伴うことでしょうか?


1.3.  地球環境の崩壊

 近代工学がもたらしたものの第三はすでに数多く指摘されているように工学による生活環境への影響です.16世紀から始まった大航海時代は地球上の暗黒部分に光を照らし,人類の足跡が全世界に及ぶまでになりました.その後も探検、開拓、開発は続き,人間の活動は地球の隅々に及び、人類の生活環境に大きな影響を与えつつあります.二十世紀半ばには地域的ではあるが、大気中の鉛公害,河川や海洋の汚染などが顕著になり,いわゆる「公害」問題を引き起こしました.

 もとより、ノーベルの火薬が人類の福祉に貢献するとともに戦争に使用され、殺戮を行うように、工学にはある意味で人類に対して両刃の剣といえる面を持っていることは確かです。しかし、20世紀末になって起こった核による汚染、オゾン層の破壊や温暖化などの問題は、進歩した工学を利用した人類の活動が局部的な影響に止まらず、地球全体に及ぶようになったことを示しているのです。

 たとえば天然界からの放出がもともと多いイオウにおいてすら,人類のイオウ排出量は天然界からの放出の3倍以上に達し、人類の活動は大気圏から成層圏に及び,フロンガスなどの放出によりオゾン層の破壊が予見されているのです.翻って見れば,オゾン層は約10億年前に形成され,地上に達する紫外線の量を激減させて生物の陸上への進出のきっかけとなったものであり,仮に人類によってオゾン層が破壊されれば10億年前以来の地球の大きな変化なのです。

図 2 MITのメドウス博士の予想図

 また、ローマクラブの「成長の限界」が基本的概念を指摘したように、石油、石炭、天然ガスなどのエネルギー源は化石時代に地球に降り注いだ太陽エネルギーの貯蓄の結果であり、鉄、銅などの金属元素の堆積も地球の長い歴史の中で進んできたものです。それらの多くの資源が人間の活動によって枯渇の危険にさらされていることは驚くべきことでしょう。
 
 資源の枯渇,砂漠化,人類以外の陸上動物海生動物の死滅、紫外線の増加、温暖化、食糧危機など人間から見た地球号の破滅と言える変動を人間は自然に対して与えつつありますが、これが工学の目指すところであったのでしょうか?


1.4. 長寿命の獲得

 近代工学は人間の精神、機能、そして環境に大きな影響を与えてきました、もちろんマイナス面だけをもたらしたのではありません。人類が450万年前に誕生して以来、人類は常に物質の不足と生存に危険に晒されてきたのです。現在に残された人類の軌跡が高度な精神活動を示すようになったのはネアンデルタール人以降で、生活をともにした家族や友人がその命を失ったとき墓に埋葬する習慣を獲得したのです。

 その遺跡から当時の人類の平均寿命はおおよそ18才程度と推定されています。さらにエジプト、ギリシャ、ローマと時代を経ても平均寿命はさほど長くはならず、ワイスによると中世の終わりまで世界の平均寿命は25-30才と推定されています。人生30年、それは現代の私たちの感覚では信じられないほどの短命であり、人生そのものの持つ意味が大きく異なっていたことが判ります。

図 3 平均寿命の変化

 国単位の平均寿命が40才を越えるようになったのは産業革命以後のヨーロッパで、1843年のイギリスの平均寿命が43才、そして1903年にはスウェーデンが50才の平均寿命に達します。よく知られているように最近の日本人の平均寿命は80才であり、しかも60才を越えても健康な生活を楽しむことができるようになりました[5]。

 平均寿命の伸びは医学の発達によるところが大きいと感じられますが、実際は医学より生活程度や衛生状態の向上が寄与していると考えられます。たとえばテレビの普及率と乳幼児死亡率が強い相関性を持つことが知られていますが、これはテレビによって母親の基礎的知識を高め、衛生観念、よりよい子育ての方法などを知るとともに、気象変動、戦争などの直接的な危険についての情報をテレビから得ることができることが原因しています。

 工学の発達によってもたらされたこのような素晴らしい成果を、本当に人類の役に立つように使うこと、それが「人類の叡智」というものでしょう。


2. 工学の専門家としての倫理

2.1. 専門家とはなにか?

 工学を学ぶということは、その道の「専門家」になることを意味しています。私たちは他の人と違う知識や技能を持っている人を専門家と呼びますが、果たして「専門家」というのはどのような人のことを言うのでしょうか? ヨーロッパでは専門家は次の3つの要件が必要とされます[6]。
 
1. 普遍的な法則に従っていること、
2. 長期間高度な習練を積んでいること、
3. 依頼主ではない不特定多数のために働くこと、

 例えば、お医者さんは普遍的な法則、つまり医学に従って、長期間、高度な訓練をし、どんな状況でも病人を助けます。この場合、第3番目の要件との関係では、患者さんは「依頼主」ではありません。たとえば、そのお医者さんが国立病院に勤務している場合、依頼主は国家です。もし、そのお医者さんが軍医として戦場に出向いたとき、味方の傷兵でも敵でも傷ついていたら助けます。つまり、依頼主に敵対する場合であっても、その人の専門は不特定多数に対して働くということです。
 
 これを「工学」というものに当てはめてみます。ある技術者が新車を作ったところ、ブレーキに不具合があり、このままで走ると衝突する危険性があるとします。もし、その技術者が「機械工学の専門家」であるなら、会社が秘密にしておけと命令してもその欠陥を社会に知らせなければなりません。専門家でなければ一般人の倫理に照らすことになります。

このように、「専門家」とは一般人よりもその専門の領域では厳しい倫理が求められることになり、その理由は「高度に鍛錬し」「その専門領域について」「不特定多数のために働く」からに他なりません。

 社会における専門家の役割は本当に大切なものです。つまり、「社会に倫理にもとる行為が行われようとするとき、それを防ぐ唯一の人は専門家である」ということができるからです。みなさんはこれから工学を学び、やがて専門家として社会に巣立ちます。そのときまでに専門家としての鍛錬を積んでもらいたいと思います。


2.2. 工学の勉強と倫理

 1945年8月6日、一発の原子爆弾が広島に投下され、その瞬間まで楽しく遊んでいた多くの子供など数万人が突然にその命を落としました。このような人間の仕業とも思えない原子爆弾を作った人は誰でしょうか。もちろん、物理学者達であり、工学を学んだ専門家だったのです。

 広島に原爆を投下する数ヶ月前にアメリカの砂漠では人類初の核実験が行われました。そしてその場にいた多くの技術者は原子爆弾の威力を「この世のものとは思えない」と表現し、その中の一人は飛び散る紙切れの速度を見て炸裂のエネルギーを計算したと伝えられています。
 
 なぜ、それほどの専門家や科学者がいるのに、「原子爆弾を投下すれば、その灼熱の地獄に可愛い子供達が居る」ということに気が付かなかったのでしょうか?原子爆弾投下後の長崎の有名な写真が知られています。その写真には両親を原爆で無くし、瀕死の幼い弟を看病していた兄が写っています。そしてやがてその弟も苦しみの中に死に、兄は弟の亡骸を背負って共同墓地に来るのです。死んだ弟を背負って凛々しい顔つきで墓地の前に立つ少年。この少年は工学の知識はありませんが、原子爆弾を作って大量の人を殺めた工学の専門家とどちらが人間として正しいでしょうか?

 この原子爆弾誕生の歴史は工学の勉強と倫理という大きく厳しい問題を象徴的に描き出しています。私たち工学を学ぶものは少しずつ少しずつ勉強して工学の力を付けていきます。最初は簡単な機械部品一つ設計できなかったのに、やがて大きなシステムすら設計し製作できるようになります。それは、それだけ社会に貢献することができるようになったということでもあり、その知識や技能を使えば多くの人を不幸に陥れる力をも手に入れることを意味します。

 工学の専門家は大きな力を持っています。それ故に、勉学の進展とともに人格を磨き、自分が獲得した知識や技能に即した倫理観や人格を築いて行かなければなりません。しかし、一般的には工学の知識や技能は大学の講義に出席し、しっかりと学べば段階的に実力を付けることができます。それに対して人格を磨いたり、高い倫理観を身につけるには広い学問は苦難を経なければならず、その獲得は容易ではありません。それでも「工学を身につけた限りは、高い倫理観を持つ必要がある」と考えているだけでも専門家に近づく一つの方法です。


おわりに

 さて、最初のところで示したガリレオ・ガリレイとフランシス・ベーコンの言葉は現代の私たちに何を語っているのでしょうか?

 「それでも地球は回っている」というガリレオの言葉は歴史的な意味を持っていますが、工学の専門家としてできるだけ厳しい表現にしてみますと、「私の今、考えていることは間違いない。たとえ神が違うと言われても正しい」と言うことにもなります。しかし、この300年間、人間は必ずしも思い違いをしなかったわけでもありませんし、また正しいと信じられてきた学説や思想がいとも簡単に覆されることも経験してきました。「人間はそれほど強い確信を得ることができるのであろうか?私たちはそれほど正しいであろうか?」と疑って見なければなりません。

 「工学は自然の原理を応用して人類の福利に貢献する学問」というベーコンの言葉は現在でも生きています。20世紀、人間は大量生産、大量消費をひたすら願って工学を進めてきました。それはそれで人類の平均寿命を延ばし、文化的生活の中で人生を送るチャンスを与えてもくれました。しかし、1972年、アメリカのマサチューセッツ大学(MIT)のメドウスが発表した計算によれば、人類は工学の過度の発達により21世紀の中盤には60億人の餓死を伴う破壊的な状況に陥るとされています。もし、工学が「人類の福利のために」活動をするのなら、人類が一気に60億人も死亡する大惨事を自ら招くことは無いはずです。その点で、すでに工学はその所期の目的から逸脱し、あらぬ方向へ一人歩きをしている可能性すら感じられるのです。

 20世紀の工学は人類に大きな貢献をしたことは間違いありません。それだからといって21世紀も同じような工学が人類の福利を増進するという保障は無いのです。むしろ20世紀とは異なる工学が21世紀の人類には必要であり、それこそが次世代を担うみなさんが学ぶべき工学なのでしょう。

名古屋大学 武田邦彦


参考文献
1 大林信治、森田敏照、“科学思想の系譜学”、ミネルヴァ書店 (1996)
2 C. Darwin, “On the Origin of Species”, John Murray (1859) London (この歴史的原著は、1977年、Yushodo reprint editionとして出版されている)
3  この種の考え方の最初の著作は、R. Dawkins(ドーキンス)”利己的な遺伝子”(たとえば、紀ノ国屋書店、(1996) 日高敏隆ら訳がある)であろう。
4 たとえば、大沼正則、“科学史を考える”、 大月書房 (1993)
5  武田邦彦、「リサイクルしてはいけない」、青春出版 (2000)
6  武田邦彦ら、“産学連携とその将来”、丸善 (1999)