工学とその倫理
1 リサイクルの矛盾
1.1 ペットボトルの増幅矛盾
飲料用の容器として500mlの小型ペットボトルが人気になっている。透明で綺麗で軽く破れる心配もない優れた容器だからである。ただ欠点は使い終わった容器が嵩張るので廃棄物貯蔵所を満杯にしてしまう。そこでペットボトルのリサイクル運動が行われている。ペットボトルは石油からできているが、石油をボトルの型に流し込めばそのままボトルになるのではない。石油を精製し、テレフタル酸とエチレングリコールを合成、高温で重合し、さらにボトルに成形する。その後ラベルを貼り、飲料を充填し、トラックで運んで初めて製品となる。リサイクルするときは使用後のボトルを集め、洗浄し、新しいボトルを製造する時とおおよそ同じ過程を経て再生される。
ペットボトルを石油から製造して消費者の手元に届くまでの石油の使用量を1.0とすると、ボトルをリサイクルしてもう1度使用する時に消費される石油は約3.7になる。つまり新しいペットボトルを使えば石油は1.0で済むのに、リサイクルペットボトルを使用するとその3.7倍の石油を使用することになる。この例のように、本来資源を有効に使用し、環境汚染を防止するために行うリサイクルが、反対に「リサイクルをすればするほど資源を使い、環境を汚す」ことをリサイクルの「増幅矛盾」と言い、新品に対して環境を汚す倍数を「リサイクル増幅指数」と言う。ペットボトルのリサイクルには増幅矛盾という単純で決定的な矛盾が含まれているにも拘わらず、善意のボランティアや公共性のあるラジオ局が深く拘わっている。
1.2 家電製品の需給矛盾
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、及びエアコンのいわゆる四大家電製品は家電製品の廃棄量の大半を占め、日本における年間の廃棄量は約60万トン近い。そこで年々増える家電製品の廃棄物を一カ所に集めて材料を分別し、プラスチックを再利用する計画が進んでいる。この計画は国も乗り出して大規模な試験工場が稼働し、見学者も後を絶たない。
家電製品や自動車に使用されるプラスチックは石油から作られる合成プラスチックで、PP(ポリプロピレン)、PS(ポリスチレン)類やPC(ポリカーボネート)などである。この様なプラスチックは使い終わった家電製品から取り出して再生しても、新しいプラスチックと同じ性能にすることはできず、「より低い性能でも使える用途」に振り向けられる。家電製品などに使用したプラスチック約20万トンを再び使える用途の需要量は約6万トンである。この例のように、リサイクル後の製品の需要がリサイクル材料より少ないことによる矛盾を「需給矛盾」と呼び、リサイクル材料量を下位の製品の需要量を100とした値を「過小需要指数」と呼び、家電製品を含むプラスチックの場合はこの過小需要指数が約300となり「リサイクル製品」が溢れる。
「カスケードサイクル」という名のついたこの需給矛盾はプラスチックばかりでなく多くの材料で見られる。アルミ缶、古紙などいずれもこの矛盾のもとで呻吟しているし、ペットボトルも回収率が上がってきたら需給矛盾が発生する。溶鉱炉からのスラグ滓を使った煉瓦は使い道が無いので地方自治体が買い取って無理に土の地面を煉瓦に変えている。リサイクルに熱心な人が「行き先も考えずに、どんどん物を作ってもらっては困る」と嘆くが、リサイクル自体が「粗悪で使い道のない物をどんどん作っている」のである。
1.3 家電製品の南北矛盾
日本で使用する多くの家電製品が東南アジアなどの海外で製造される。海外生産比率はカラーテレビ80%、ステレオ70%、電子レンジ70%、冷蔵庫、ビデオ50%程度である1)。この理由は家電製品のような成熟製品は原料がより安く、人件費を抑制できる国で生産しないと国際競争力が無いからである。
一方、廃棄物による環境破壊を防止するために、1989年3月UNEP(国連環境計画)によってスイスのバーゼルで「バーゼル条約」が採択された。この条約は有害廃棄物の越境移動を国際的に規制しようとするものであり、簡単に言えば「有毒物を含む廃棄物を国外に出してはいけない」ということを規定した条約である2)。バーゼル条約で言う「有害廃棄物」とは①成分として含んでいる化学物質が有害なとき、②生産工程から排出される物質が有害なとき、及び③廃棄物が持っている特性が有害なとき、と定義されており、ほとんどの電気製品に使用するはんだの鉛、表示用のヒ素、難燃剤として混入するダイオキシン発生の可能性のあるハロゲン化合物などが含まれる。東南アジアで生産して日本で使用する家電製品は使用後に東南アジアに逆方向に輸出してその処理を行うことができない。
バーゼル条約
この「南北矛盾」は現代の深い社会矛盾を気づかせる1つである。まず第一に家電製品は、原料が安く、人件費が安いから東南アジアで製造しているのである。それを、原料が高く、人件費の高い日本でリサイクルしてどうすることもできない。リサイクル品は新品より価格が高く品質が低く、しかも日本で製造しなければならないのだから、見通しは立たない3)。
第二に何とかバーゼル条約を回避して使用後の家電製品を東南アジアで処理をしたとする。日本人はお金を持っている。だから東南アジアの人にテレビを作ってもらい、お金を払って日本人がテレビを楽しむ。使い終わって古くなったテレビを日本人が処理すると高くなるので、逆方向に再輸出して処理をしたとすると、日本人はお金の力で自分たちが使う物を作らず、使った物を処分せずに生活をすることになる。「地球にやさしい」とか「人類、みな兄弟」などと言わなければ良いが、片方でお金の力でやりたい放題をして、片方できれいごとを言うのはどうだろうか?
かつて日本の通産省は、
「平和主義を信奉する我が国にとって、4つの小島に満つる9,000万国民の生活を向上し、経済を発展し、国力を培う唯一の方法は、その平和的対外進出である」
と宣言した。この方がすっきりする。
リサイクルにおける南北矛盾は家電製品に留まらず、リサイクルというものが国際貿易を破綻させる要素を孕んでいる。まず、第一にリサイクル率が100%近いシステムが成立している社会を想定し、第二に国際分業で海外から良い製品を輸入する、そして第三に。「廃棄物は自分で処理する」という連立方程式を立てると、自由貿易は成立せずリサイクルコスト上昇分だけ関税をかけることや輸入規制を行うようになる。
1.4 使い捨てカメラの時代矛盾
カメラとフィルムが一体となった、いわゆる「使い捨てカメラ」は1986年に出現した商品であり、その価格は1,000から3,000円程度、フィルムがすでに充填されており、機械の扱いが得意ではない人たちに歓迎され、ヒット商品となった。しかしまもなく環境資源問題がクローズアップされると、「使い捨て」という商品概念そのものが非難されるようになり、メーカーはこの商品のリユース研究を始めた。
リサイクルの最もやっかいな問題は、使い終わった物の回収であるが、写真の場合は消費者が自らフィルムを現像所に持ち込むと言う特別な環境がある。この特徴があるのでこの場合とても都合がよい。加えて、カメラは使用するときにも比較的丁寧に扱われるもので、その点でもリユースに有利である。
しかし使用後の製品が回収できるからと言って現代の商品コンセプトは厳しい。リユースでは巻き上げの部分、ストロボユニット、メーカーユニットは再利用され、巻き上げノブ、裏カバーと表カバーのプラスチック部分は新しい樹脂と混合されて再使用され、電池や表面のラベルは廃棄される。このように理想的に見える使い捨てカメラのリユースでも経済的に成功していない4)。再び新製品に使うためには品質保証が大切であること、プラスチック部分は使用によって疲労し分子量が低下することなどリユースには本質的な問題点を含んでいるからである。慎重に調査すると現実には「使い捨てカメラ」の方が環境に優しいという意外な結論を得る。
もともと20世紀にはベルトコンベアー方式による工場大量生産が生まれ、際だって高い生産性をもたらし、さらにそれに電子化による無人生産方式、ネットワークを駆使した物流システムで現代の生産システムは支えられている。それと比較して、人手を使って回収、分解、組立、再使用されるリユース製品が成立しないのは当然かも知れない。そして高い生産性ゆえに贅沢な生活をしている日本人が「江戸時代はリユースが当たり前だった」と言ってもそれは無理である。
1.5 銅のリサイクルや製鉄法と資源矛盾
これは単純な錯覚による矛盾である。銅は枯渇の可能性のある元素でその資源寿命は50年程度と言われている。そのため、銅のリサイクルの研究が盛んである。ここまでは問題が無いが、銅のリサイクルにはかなりのエネルギーが必要で、それに石油を使用する。銅の資源寿命が50年で、石油の寿命は38年である。いくら銅の資源が大切だからといって「資源寿命の長い銅を、より資源寿命の短い石油でリサイクルする」というのは明瞭な矛盾である。
これに関連した製鉄法の例をあげる。二酸化炭素の発生により地球が温暖化されると言われ、特に製鉄は国の基幹産業であるとともに巨大で、そこでのエネルギー効率や二酸化炭素の排出量は重要な問題であるので、「二酸化炭素の放出が少ない製鉄法」の研究が行われる。しかし、二酸化炭素による地球温暖化が問題になる2030年頃にはすでに石油は枯渇寸前でとても製鉄などに使用できないだろう。
1.6 古紙回収の持続性矛盾
さまざまなリサイクル矛盾の中でも超弩級の2つを最後に挙げる。
まず紙のリサイクルである。一般的に言って「なぜリサイクルが必要か?」と問われれば「資源の有効利用と環境の保護のため」と答えるだろう。そして大昔から地球の地殻運動や生命活動で蓄積した資源である金属元素や石油石炭がもっとも貴重な資源である。
さて、人類に紙や木を与える世界の森林資源はおおよそ21億haであり、木の成長速度や森林量から世界人口60億人の時の1人あたりの森林蓄積は約50立方メートルと計算されている。日本人は世界でも紙や木を飛び抜けて多く使用する国民であるが、それでも日本人1人あたり1年で使用する木材は1立方メートル未満であり、必要な紙や木を継続的に生産するいわゆる「持続的生産」はこの資源については十分可能である。しかし、日本の紙のリサイクルの総量は1年で1,600万トン程度であり、おおよそ50%の紙がリサイクルされ、それに石油が使用される。
すなわち、古紙回収の矛盾の第一はリサイクルの負荷である。紙のリサイクルコストでは、集荷のコスト、一時貯蔵のコスト、脱墨のコスト、回収歩留まりによって、「リサイクルによる環境悪化指数」はおおよそ200となり、古紙回収によって環境を大変汚している。第二に紙のリサイクルは「持続性資源の非有効利用」である。すなわち、太陽光で継続的に生産が可能な紙という「持続性資源」を、石油や金属資源のような「非持続性資源」を使用して回収するという論理矛盾(持続性矛盾)が指摘される。
1.7 自動車の両価性矛盾
最後にリサイクル工学全体に見られる「両価性矛盾」について述べる。ちなみに「両価性」とは精神病の一種の医学用語で、「あなたを尊敬する」「あなたを軽蔑する」といった相反することを同時にしても、それを本人が気が付かない「精神病」の一種である。
現在日本の自動車会社はリサイクルに熱心である。リサイクルは環境の保護を目的としている。従って自動車会社の目的は「材料消費を抑制すること」であり、それでこそ「我が社は環境に配慮した商売をしている」と標榜できる。しかし現実には「リサイクルを標榜して生産量を増大したい」という状態である。すなわち現代の社会システムでは自動車会社といえども「生産量を上げずに繁栄する」という処方箋を切れない。そこで自動車会社はリサイクルを標榜しつつ増産体制を作るという両価性の精神病にかかる。増産のためのリサイクルという現象は自動車会社だけにあるわけではない。先に述べたペットボトルはその顕著な例の1つであり、類似のものとしてはアルミ缶も同じである。アルミ缶リサイクル率はかつての20%程度から最近では70%を越す勢いである。リサイクルが50%もあがったのだから、廃棄されるアルミ缶は減少していると思われるが、むしろ増加している。リサイクルが出来るという安心感からアルミ缶の使用量が増大し廃棄されるアルミ缶の総量は継続的に増大しているのである。
社会がもう少し小さく、誰の目でも真実がそのまま見れるような社会構造なら、アルミ缶のリサイクルを始めてもゴミ箱にたまるアルミ缶が減っていないことに気がつくだろう。しかし現在はアルミ缶のリサイクルと現実にゴミ箱にたまっていくアルミ缶の関係を5感で感じることは出来ない。人間は五感で感じることができるときには「両価性的行動」は人間に大きな精神的圧迫になり、普通の神経の人には耐えられない。しかし現実喪失の環境にあってはメーカーは両価性的行動をするのにさほど矛盾を感じていないし、それを見ている我々も内々知っているのに行動を起こさない。
リサイクルの矛盾は奥が深い。
2 矛盾をもたらした諸要因
2.1 工学から見た文明の持続性
環境に関わる日本の学会の指導層が著作した「地球環境工学ハンドブック」という書物がある。ページ数は1372ページ、環境に関するほとんどの項目が収録され、詳細に述べられている。この書の最初に次のような総論が書かれている。
「モダンの時代のガムシャラな「大きな物語」にしろ、ポストモダンの時代のバブルのようにひしめく「小さな物語」にしろ、目的は経済成長にあった。いかに需要を喚起し、物質的に豊かな社会をつくり出すかが第一の問題であった。しかし、こんなことを続けていれば、地球環境は悪化の一途を辿るわけだし、もし現在の主要な開発途上国までが先進国並にまで経済成長したとしたら、地球はいったいどうなるのだろう。考えただけでもゾッとするではないか。」
この文章の中で「もし現在の主要な開発途上国までが先進国並にまで経済成長したとしたら、地球はいったいどうなるのだろう。考えただけでもゾッとするではないか」という行があるが、これが日本という先進国のなかで指導的立場にある学者が書いたということはリサイクルの矛盾の主要な要因の1つを期せずして表現していて面白い。
この文章に書かれているとおり、もし現在の開発途上国の国民が先進国並の生活をして、資源を使用したら資源は瞬く間に枯渇し、地球環境は破壊される。日本などの先進国は世界人口の約5分の1であり、それらの国の1人あたりの資源の使用量はもののよって違うが開発途上国の人のおおよそ10倍である。つまり現在の世界をエネルギーを含む物質の使用量という点からみれば、世界人口の5分の1の人が、世界で使用する全体の物質の約70%を使用している状態なのである。開発途上国の人が日本人と同様の生活をすると世界の使用量は現在の3.6倍程度になり、資源は2010年に枯渇する。
つまり、
1、工学は自然現象を利用して人類の福祉に貢献すること
2、世界の人は等しく近代工学の発展の恩恵を受ける権利がある
の連立方程式を満足させようとすると、それは2010年に現在の文明が崩壊することを意味している。
まさに「考えただけでもゾッとするではないか」。
そこで今度はより現実的に、
1、資源の保全と地球環境の悪化を防ぎ
2、世界の人は等しく同じ生活をする権利がある
と言う連立方程式を立てる。その場合には世界の総資源使用量は現在の約3分の1になり、枯渇の心配は22世紀以降になる。しかし今度は我々日本人が発展途上国の人と同じ生活レベルに落とすことを意味する。
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明治初期(1890年)の箱根湯本の東海道の写真である。エネルギーや物質の無い生活というのをよく表している。現代の工学を持ってしても貧しい食事、夜の6時に電気を消し、テレビは1日1時間、冷蔵庫なし、毎日足で歩いて買い物に行き、水洗トイレ無し、風呂は1週間に1日、特別な用事以外は遠方には旅行せず、家族そろってのドライブや通勤に電車を使うことは不可能である。乳児死亡率の上昇、平均寿命の低下は避けられない。
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またこの母と子の写真はピュリッツァー賞を受賞したものであるが、我々はこの様な生活に戻れない。
そこで第三の方法が考えられる。それは「工学は自然現象を利用して人類の福祉に貢献すること」というのを「工学は自然現象を利用して特定の国の国民の福祉に貢献すること」と読み替え、その上で次の連立方程式を立てる。
1、工学は自然現象を利用して先進国の人だけの福祉に貢献する
2、資源の保全と地球環境の悪化を防ぐ
この方式をアメリカが考え出し、国際的に行っているのが「地球温暖化防止国際会議」である。この国際会議の考え方は核不拡散条約と同じであり、すでに現在使用している各国のエネルギー量を既得権益として認め、エネルギーの使用量にほぼ比例する二酸化炭素の放出量を国際的に取り決めるものである。そうすると現在1人あたりのエネルギー消費量が日本の約2倍であるアメリカはそのままその国力を保つことができ、発展途上国の発展を阻止することが出来る。しかも国際的には開発途上国に「発展してはいけない」と言うことは出来ないが、「地球を温暖化させる二酸化炭素の放出量を抑える」という大義名分なら国際的な合意を得られる。
このように、アメリカ人と日本人の本音は「発展途上国は我々と同程度の生活をしてもらっては困る」ということであり、その点で先進国の利害は一致している。21世紀を迎える現在、近代工学が目指してきた自然の原理を応用して人類の福祉に役立てる、という目標は崩壊しつつある。
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中世ヨーロッパの外科手術を描いたこの絵では、患者の足を鋸で切り落としている医者、切り落とされる足を持つ助手、滴る血を受ける盥、そしてすでに死線をさまよっている患者に覚悟をつけさせる牧師が背後に居る。私はこの様な社会に生まれたくない。矛盾があっても現代の日本の方がましである。次に、近代工学がなぜその目的を失い連立方程式が解けない状態になったのか、それを解析する。
2.2 近代工学の最初の歩み
近代科学の思想的基盤を打ち出したF・ベーコンが“ノヴムオルガヌム”を出したのが1620年、”デカルト座標”で知られているR・デカルト(1596-1650年)が、「方法叙説」( Discours de la methode)を著したのが1637年。そしてI・ニュートン(1642-1727年)の「プリンキピア」として知られる「自然哲学の数学的原理」 (Philosopiae naturalis prinpicia mathematica)が1687年に続いた。 この3人の巨人が中世の世界観を打ち壊し、300年に亘る近代科学と工学の礎を築いた。
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ベーコンは「知識は力であり、それこそが人類に貢献するものである」と科学に対する明るい信念を示し、デカルトとニュートンはその哲学で、第一に”世界は理性によって理解することができる”と言い、第二に”数学の助けによって出来事は科学的に表現できる”と結論した。天体を動く惑星は神の愛によって動かされるのではない。物体が地上に落ちるのもまたその物体の意志で地上に落るわけではない。 従来自然界の出来事は、神の愛と人間の合目的的な方向に動いていると考えられたが、[原因]と[結果]が数学的な法則によって結びつけられていると説いた。
ニュートンの残した[私は仮説を作らない](Hypotheses non fingo)という言葉は、彼が偉大な哲学者であるとともに、実験科学者であったことを物語り、「私の目の前に未知の真理をたたえた海原が横たわっている。」(Newton 1727)という彼の言葉は近代科学が始まったときの優れた科学者の実感でもあった。それ以来、科学者はその未知の真理をたたえている海原に漕ぎだし、全力を挙げて自然界の法則の発見し、それはやがて人類の福祉を目的として工学への応用された。
しかし、近代科学の発祥の時点において科学の人間社会への影響については哲学やその他の学問は警鐘を鳴らしていたのも事実である。科学に対して最も楽観的であったベーコンですら「科学は宗教と理性の制約によって人間に役立つものになる」とその利用に制限を設けているし、その後継続的に科学の危険性が指摘され、スウィフトは「ガリバー旅行記」で具体的な例をあげてその危惧を示した。彼がガリバーを書いたときのイギリスにはまだ蒸気機関は発明されておらず、機械工業としては自動織機などの原型が生まれていたに過ぎない。19世紀に入り蒸気機関が本格的にその威力を発揮し、雷と電気の関係が明らかになると、未知のものに対する不安が広がる。
イギリスの女性作家、メアリーシェリーがその代表作「フランケンシュタイン」の中で、科学が生んだものはやがてその作り主を苦しめることになること描いた。彼女は漠然とした科学に対する不安や恐れによってフランケンシュタインを描いたのかも知れず、また現在の我々が科学に対して感じるようなものとは質的に全く異なったものだったかも知れないが、科学が自然な状態のまま野放図に発展させることに直感的な懼れを持っていたのだろう。時代が経ち19世紀の半ばにはエンゲルスが「科学はそれを受け入れる社会的基盤のもとで発展すべきである」とした。今日にいたるまで科学と社会の関係は基本的にこのエンゲルスの枠の中で考えられており、バナールを経て現代の環境問題でも社会基盤を築けば大丈夫であると信じられている。
2.3 独立して歩み出す近代科学と工学
近代科学は独立して歩み初めてまず人間の精神界を破壊した。
ガリレオは「それでも地球は回っている」と言ったとされるが、それは「われわれは自然をありのままに観測する。何が悪いのだ」という近代科学の強い意志が感じられる5)。しかし、それまで自分たちは宇宙の中心に位置していると信じていた人類は地球が宇宙の外れにあり、地球の周りを回っているはずの太陽はむしろ自分たちの地球の親であるという事実を突きつけられて大きなショックを受ける。19世紀に入って、キリスト教世界観はダーウィンの進化論で再び打撃を被る6)。彼の「進化論」は人間がサルから進化したものであることを明らかにし、動物と人間の本質的な連続性を示した。
20世紀に入っても進化論教育に対するキリスト教の側からの疑問は提示され続けられた。特にキリスト教の信仰の篤いアメリカ中西部の中学校で生徒に進化論を教えた門で裁判に掛けられたスコープス(John T. Scopes1900-70)は有罪判決を受けた。
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この所謂スコープス事件の一般的な評価は、キリスト教側の学問に対する言われ無き攻撃とされている。しかし、科学がもたらした精神界への打撃について、科学側はその原点に返って充分な配慮を行なわなかった。科学はあくまでも人類の福祉に貢献するものでなければならないとするならば、物質社会のみならず精神的影響においても考慮する必要がある。
しかし、生命の尊厳に対する科学の挑戦という意味では、1953年のワトソンとクリックのDNA構造の解明のほうがさらに大きい。DNA構造の発見を哲学的に解釈すると「生物と無生物の間に境界はない」もしくは「命の尊厳というものはない」と結論された7)。
近代工学はやがて人間の機能を破壊する。
蒸気機関やモーターの発達は炭坑夫や木挽き職人と言った単純で厳しい肉体労働は無くなったが、その一方で遺伝的に与えられている「若い男の筋肉」はほとんど不要なものとなり、そのストレスは若者を襲う。今や大学を卒業して新しく労働につく若い男性の筋肉はコピー機の蓋を開ける程度しか役立たず、筋肉を使えないことで若い男性が強いフラストレーションを感じている。これは工学の成果による肉体労働からの解放と言えるが、ある意味では「人間から、その機能の一部である筋肉労働を追放した」とも言える8)。
今世紀に入って家庭が電化され主婦はあかぎれと継続的な家庭労働から開放された。それまでの家庭労働は厳しく連続的であり、多くの女性は出産と育児を伴う家事労働にぼろぼろになってその晩年を迎えていた。その反面、女性が母性として愛され、家族から母親の献身的労働に対して感謝されていたのである。しかし今や女性は家族からの尊敬と愛情を得る権利を失いつつある。精神的に忍耐強く、肉体的にもねばり強く、子供にしつけや言語を教えるために口数が多いという女性の能力はその発揮するところを失った。
近代工学の最後の努力は人間の頭脳の追放に向けられている。コンピューターや通信技術が電車の駅の切符切り、銀行の窓口の支払いなどの単純頭脳労働を追放してきたが、現在では頭脳をもって社会的価値を発揮していたインテリ層の追放を徐々に開始している。激しい速度で進行するデジタル化、情報革命、そしてネットワークの高度利用をもたらす通信革命は人類に残された最後の砦である「頭脳労働」から追放するだろう。
近代工学は、最初に屈強な男から筋肉労働を、次に女性から家庭労働を、そして現在では人間から頭脳労働を奪い、順次人間からその機能を奪いつつある。現在我々が日夜その研究に励んでいる工学は、まさにまっしぐらに人類からほとんどの機能を奪わんことに熱中している。これが近代工学が抱えている基本的な矛盾である。
最後に工学は地球環境に手をつけた。
人類の活動規模が拡大し「大自然」を上回り始めたのは1940年代である。例えばこの時期に硫黄化合物において人類のイオウ排出量が火山などの天然界からのイオウの放出量をに上回った。やがて核反応物質による地球規模の汚染、二酸化炭素の増加による地球温暖化と進み、さらに大気圏から成層圏にも及んでオゾン層の破壊が予見されている。翻って見ればオゾン層は約10億年前に形成されて地上に達する紫外線の量が激減した。それによって生物は陸上へ進出し、現在の繁栄の基となっている。仮に人類によってオゾン層が破壊されれば10億年前以来の地球の大きな変化と言える。
同じく石油、石炭などのエネルギー源は化石時代に地球に降り注いだ数億年の長い時間に亘る太陽エネルギーの貯蓄の結果であり、鉄、銅などの金属元素も地球の長い歴史の中での生物活動、地殻変動により集中的に堆積したものである。これらの100に満たない人類の活動によって枯渇の危険にさらされている。
工学はその所期の目的と離れて、人間の精神や機能を破壊しようが、環境や資源に不可逆的な影響を与えようが、勝手に我が道を歩みつつある。
2.4 工学による社会の支配
19世紀の後半まで工学は学問とも見られていなかった。工学が正式な大学活動の1つとして世界的に認められたのは1866年、アメリカにMIT(マサチューセッツ工科大学)が設立された以降のことである。そのような歴史的経過から工学は学問のごく一部分を担当しており、昔からある伝統的な哲学、法学、文学などと比較して劣位にあると考えられた。しかし、始めてみると工学が社会に対して他の学問より大きな影響を与える可能性があるということが徐々に判ってきた。
このことに最初に気づいた工学者はノーベルであり、破壊的な黒色火薬の爆発力がやがて社会に大きな影響を与え、それが悲劇的であっても避けられないことを感じた。しかし、残念ながら平和を願って作られたノーベル賞などの努力はあまり役に立たず、第一次世界大戦では機械工学の粋を集めた機関銃が大量の戦死者を出し、第二次世界大戦ではついに原子爆弾が市民の頭上で炸裂した。それまで蓄積された西洋の哲学、倫理学、経済学、社会学、歴史学、文学、政治学、そして政治運動、社会運動などのあらゆる人類の知恵と活動を持ってしても近代工学の産物である原子爆弾を使用することも止めることは出来なかったし、その後も世界中の人類を数十回全滅させるだけの核爆弾を製造し続けることに対しても同様に無力であった。
学問がもし対等な力を持っているとしたら、原子爆弾を炸裂させることに対して他の学問は阻止する力を有しているはずである。しかしそれは全くの幻想であり、現在でも幻想である。丁度、平安時代に貴族に雇われていた武士が次第にその実力を貯めて、ついには貴族を追いやり政権を奪取したように、工学は下等な学問と見なされていたが、徐々に実力を蓄えて社会を支配するようになったのである。
例えば工学者が新幹線を発明すると政治家はせいぜい新幹線をどこに敷設するかを決めるだけの力しかない。携帯電話が発明されるとほとんどの人がその影響のもとに繰り込まれる。コンピューターが実用化されると銀行の窓口や駅の改札口の人は追い出され、生活のパターンのも変わってくる。工学は今やあらゆる人間活動の主人になっているが、当の工学者はそれに気づいていない。むしろ工学者はそれに気づくこと自体が傲慢なように思っており、あくまでも自分には「社会という主人」が居ると信じて活動をしている。
しかし、工学が社会を支配して人類が工学の発展から逃れることが出来ないことを工学者自身が強く意識することが必要であり、それはハイデッガーのごとき哲学者に任せておくことは出来ないのである。なぜならハイデッガーは物事を解析することは出来るが、コンピューターを作ることも作るのを止めさせることも出来ないからである。
2.5 未知の大海の消滅
19世紀の物理学、化学の分野で大きな功績のあったヘルムホルツはその晩年、「なぜ太陽はあのように輝いているのだろうか?なぜ、あんなに強く長い間燃えているのに、燃料は尽きないのだろうか?」と疑問を持ち研究を行ったが、結局太陽が輝いている理由を明らかにすることが出来なかった。彼が残した宿題はキュリー夫人が元素の崩壊を発見し原子力が見いだされて解決した。20世紀初頭の量子力学の大家、シュレーディンガーは「人類に残された最後の疑問である生命の神秘を物理学の力で解く」と豪語してその晩年をその研究に捧げたが、何の成果も上がらなかった。かれの宿題もまた1953年、ワトソンとクリックという30才にも満たないに人の研究者によってDNAの構造とその機能が明らかとなり、あっさり解決された。
ニュートンの言う「目の前に拡がっている未知の大海」の探検は20世紀半ばのDNAの構造解明によって終了したように見える。それは1700年以来250年間連続的に続いてきた科学的発見がDNAの発見以来、途絶えたことによっても、また現実的に第一線の科学者が見渡してみると目の前には「未知の大海」が見られないことでも判る。現在自然界の未知のものとして残っているものは1910年にオンネスによって発見された「極低温における超電導現象」のように特別な環境下で生じる現象と、ニュートリノの観測、さらには100億光年より遠い宇宙の研究まどが断片的に残っている。1970年代には先駆的な研究者が「自然界の発見を必要としない人工物工学」を提唱した。自然の原理を応用するという工学の大原則を諦め、人工的に作り出した原理や現象をもとに工学を進めていこうと言う試みである。
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目を科学や工学の分野から離れてみると、ルネッサンスから始まった近代絵画は19世紀の終わりにおおよその活動が終わり、20世紀のピカソらを最後に終焉した。右の絵は1856年アングルが描いた美しい作品であり「泉」という題名がついている。それから60年後には同じ題名の「泉」という絵画が発表されたが、そのモチーフは便器であった。遅れて誕生したいわゆるクラシック音楽もバッハの活動期がニュートンのそれとほぼ同時期であるり、ベートーベンなどを経て成長、成熟、そして衰退し、20世紀には「5分33秒」等というふざけた音楽が登場する。「未知の大海」が消え、無理矢理テーマを見つけようとしているのは科学や工学の世界だけではない。20世紀の後半になって「未知の大海に残っている岩の裏のよどみ」を漁っているに過ぎない状態に陥ったのである。
2.6 人工物工学の将来
数年前、イギリスの新聞がDNAの操作によって臓器移植に画期的な方法が発見されたことを報じた。
「国立遺伝学研究所はDNAの操作で、ブタのDNAの中に人の肝臓の遺伝子を組み込むことに成功した。この遺伝子を持つブタは格好はブタであるが、その肝臓は人間と全く同じである。このブタから肝臓を取り出し人間に移植しても、もともと人間の肝臓なので拒絶反応もない。もはや人間の臓器移植は「人の死」を問題にしなくても良くなった。」
確かに人間肝臓ブタができればそれは大変に便利である。「人間肝臓ブタ」を飼育しておけば、肝臓が悪くなった人が出てきたら人間肝臓ブタを屠殺して肝臓を取り出せばよい。人間の死が心臓死か脳死かというような複雑で哲学的な問題を解くことを回避できる。いっそのこと、人間肝臓ブタが作れるようなら、人間腎臓ブタ、人間心臓ブタ、人間皮膚ブタなども役立つかも知れない。そうすれば肝臓も、腎臓も、心臓も、やけどしたときの皮膚もブタから提供を受けることができる。人間足ブタなども良い。何かの怪我で足を切断したとき、人間足ブタから足の提供を受けることができる。
そのうちには「えい、面倒だ!」ということになり、肝臓だけブタとか皮膚だけブタとか区別をするとブタの数が多くなるので「脳だけブタで体は全部人間」というブタを作っておいた方が能率的だ。かくして2本足で歩き人間の体を持ったブタが出現する。病院の横に大きなオリを作りそこに「人間からだブタ」を大量に飼育する。ところで、檻の中のブタの体は人間と同じなのでこれが意外と面倒である。例えばブタのメスは人間の女性と同じ体をしているので裸で飼育しておくのも風紀を乱す。着物を着せておかなければならない。またオスのブタとメスのブタを同じオリに飼っておくと白昼公然と猥褻行為をして貰っても困る。いったいこの「人間からだブタ」は人間として扱うべきであろうか。
半年ほど前に「若いサルの頭を切り取って、年を取ったサルの頭に付け替える実験を行い、数週間生かすことに成功した。人間への応用はまだ考えていない」と報道された。この研究が成功したら、年を取ったら若い人の体を買い取って自分の頭をすげ替えればよい。そうすれば人間はついに永遠の命を手に入れられる。
「人間からだブタ」なり、「頭脳すげ替え人間」などはまだDNAの威力を十分には活用できていない。遺伝子工学は真四角な体で目も耳もない人工生物を作りだし、人間が必要とするタンパク質を供給し始めるだろう。この人工生物はブタより清潔であるし、自然界の生命を傷つけないで人間も生きることができるようになるのだから結構である。このように遺伝子工学は生物を創造し、医療、食料環境を激変させる。
一方、情報工学は人間の頭脳より速度の速い情報処理をするようになる。既に九九の計算は漢字を覚えることは不要になりつつあるが、まもなくパソコンが世界でもっとも素晴らしい文章を書いてくれる様になる。軽くて持ち運びの出来る「即時同時通訳機」の発達で英語の先生も追放される。ほとんどの職業はコンピューターが代替し、人が会社に行かなくなるので通勤電車も少なくなり、駅の売店も開店休業になる。我々は労働をしなくなり、廃人のごとく毎日を過ごす。
3 21世紀の工学
3.1 リサイクルの矛盾の陰に潜んでいるもの
20世紀の終わりに我々、特に工学に携わる人たちが漠然と感じている閉塞感と方向性を失った感覚は科学と工学を取り巻く歴史的状況から生じている。
1、科学は250年間の探検を終わって、今や我々の目の前には未知の海原が無い。
2、工学は自己増殖して所期の目的を離れ、人間の機能を奪い、原子爆弾を製造し、成層圏を破壊しつつある。
3、工学は徐々に力をつけ、今や工学の独走を止める学問や人間の活動は存在しない。
4、工学の力が巨大になり地球という閉鎖空間に保存されている資源を「所得」から「資本」に変更した。
ゲルマンの社会倫理に見られるように現実感のある社会においては一人一人の行動ははっきりと五感で捉えることができ、共同体を運営する簡単な原則を定めることが出来た。原始的な社会でもっとも大切とされた「誠実」は現在の社会でももっとも大切であることに違いはない。しかしゲルマンの社会では「不誠実」は「生ける屍」を意味したが、現代社会では不誠実は取り立ててとがめられることも無い。ギリシャ・ローマの洗練された文明とゲルマンの荒削りであるが正しい文明から生まれたものは「社会契約説」などの不良副産物であり、人間社会での「誠実」の価値を奪った。
このような「現実の喪失」は社会の成熟と情報革命によってより明確になってくる。昔は家からあまり離れていない田んぼで父親が田を耕していた。少年は大きな切り株にぶつかり悪戦苦闘している父親を見て手伝いをしようとその切り株に取り組むがビクともしない。やがて自分が足も手も出なかったその切り株を父親が引き抜くのを見て、自分の心に父親への尊敬の心が自然に湧いてくるのを感じる。現代の粗大ゴミと呼ばれる父親とは大違いである。昔なら囲炉裏のそばで寝ころんでいる父親を見ると「疲れたんだなあ」と心配するが、それは昼間に父親が奮闘する姿を見ているからである。
さらに土地の所有というものを基本にしてきた人間社会が資本主義になって金品の所有を基礎とするようになった。土地であっても無制限の保有は可能であるが、金品であればその所有はさらに自由になる。そして移動と通信の発達により人間の活動範囲が、村から都市へ、国家へ、そして世界へと広がった。それによって所有権の争いは世界的になり人間同士の競争を無限に繰り返さなければならなくなった。
このような社会的ひずみは個々の人間の努力でも、また国家や政治、教育の努力をもってしても直せない。その例として子供の教育という問題をあげることが出来る。世界の多くの国ではより優れた大学に進むためにいわゆる受験勉強に青春時代を過ごす。それは無制限な競争制度であるから、エスカレートし時間のある限り勉強するようになる。明らかに「人間の子供として望ましい」時間の使い方では無くなってもそれを解決することは出来ない。ほとんどすべての親が望ましく無いと思っても抵抗することができない。価値観に基づく行動が出来ない社会になっているからである。
鎖国制度のように自由競争が認められず、国際化していなければ為政者の政策も有効である。しかし自由競争と国際化は選択の余地無く厳しい競争状態へ進む。文明が発達し、工学が人間の機能と仕事を奪って行くにも関わらず、かえって忙しくなるという実に奇妙な状況が予想される。
この様な社会基盤の変化と崩壊した人間古来の精神構造が現代の閉塞感を加速させている。即ち、社会学哲学領域で現代の閉塞感の原因をあげれば、
1、巨大化した社会が人間の集団としてのモラルを必要としなくなった。
2、自由と国際化が無制限の競争社会を構築し、個々の人が価値観と行動を一致させることが出来ない社会になった。
3、科学と工学の進歩が人間から価値の絶対基準を奪った。
このような変化の中で人間が太古の昔から「良い方向」であると信じてきたことが良い方向では無くなってきたいう面も重要であるように思われる。
ルターにおいては、お祈りをして神を敬い、神から与えられた職業を全うすることは正しいことであった。農夫は種を蒔き、鍛冶屋は鍬を作るのに精を出せばよい。食料は慢性的に不足しているのだから農夫が一生懸命働いて収穫量を増やしてもそれは神を背くことにはならない。この関係は鍛冶屋であれ、靴屋であれ同様であった。
マルクスは弁証法的唯物論から階級闘争という概念を作り出し人間を人間らしくない労働から解放しようとした。「労働」は人間の活動として捉えるべきであり「労働によって人間がその真面目さを発揮できる機会」が失われれば、人間はもっぱら「病気になったり、死んだり、泥棒をしたりする」場合だけ人間であるという事になる。日本の正月にでる伝統的なおせち料理には「マメマメしく働く豆」「子孫が殖える数の子」など勤勉、末広がりという従来から信じられてきた人間の正しい方向を形にしたものである。しかし、突然、物を生産してはいけない、子供を殖やすことは望ましくない、生活が良くなることを願ってはいけない、と言われても俄には信じられない。そのような環境は人類史上初めてなのである。
我々は歴史上の思想家に対して思考力の深さにおいて対峙することは出来ない。それにも拘わらず現在我々が抱えている課題の解決策をそれらの巨人に委ねることができないのが我々の持つ矛盾の本質であるのだ。
3.2 新しい「お目出度さ」
「リサイクルの矛盾」は価値観の変更を迫られている現代の社会と工学の状況の中でや必然的に起こってきた。人類の誕生以来、人類の基本道徳は常に
「産めよ、殖やせよ、地に満ちよ」
であった。勤勉に働くこと、生産量を上げること、そして子孫を増やすことは第一義にお目出度いことであった。ルターが天職に励むのを進め、マルクスが労働を人間の大切な人生の一部と考え、お節料理で数の子が出るのは間違いではなかった。物質が過剰になるなどという社会は経験もしていないし、想定も出来なかったのである。今や、勤勉に働き生産量を上げ、子孫を増やすことは勧められることでもなく、お目出度いことでも無くなった。それでも、半分は勤勉を求め、半分は「ゆとりある生活」にあこがれているのは、人類のこれまでの価値観を一度にひっくり返すのが難しいことと、新しい価値観が具体的な形で提案されていないことにある。単に「ゆとりある生活」「豊かな心」などと言われても「産めよ、殖やせよ、地に満ちよ」と比較すると抽象的でわかりにくい。本論の最後に工学を中心とした新しい規範、即ち「新しいお目出度さ」を提案しようと思う。その前に4つほど準備をしたい。
第一は長い生物の進化の中で、遺伝を司るDNAの進歩と共にもう1つの情報である脳情報も増大し、人間において特殊な環境にあると言うことである。これら2つの情報が進化の過程で丁度同じ量になったのが両生類であり、それ以降脳情報は継続的に増加し人類の脳情報はDNA情報の100倍程度である。そのため、人類の「DNAに基づく本能的な行動や考え」の多くが脳情報による。脳情報は後天的な情報であるので、生物が生きる、増殖する等の生物的な先天的基本原則が歪められ、幻想の世界に泳ぐことが多い。それが深層心理学の研究対象でもあり、無制限の貪り、意味もない怒り、そして際限の無い愚痴という人間の3つの煩悩にもなるのである。種族同士の激しい殺し合い、発情期のない性欲、自分の健康に都合の悪い物を好む食欲など人間の多くの感覚には生物学的論理は働いていない。従って、人間が今までうち立ててきた数々の黄金律、基本倫理、行動綱領の多くは脳という後天的情報源による幻覚の産物である可能性もあり、倫理の時代性の原因でもあろう。また、脳情報で認識できる大部分は環境認識であって論理認識ではない。従って周辺を全体として認識する日本流と論理的に認識するヨーロッパ流では日本流が優れている可能性もある。
第二に、すでに「新しいお目出度さ」を実践しているいくらかの人物が存在する。イギリスの貴族キャベンディッシュ(1731-1810年)は万有引力定数の測定や水素の発見をした偉大な科学者であった。彼の画期的な成果を発表すれば大変有名になるからと友人が勧めてもキャベンディッシュ全く関心がなかった。彼は万有引力定数そのものに興味があるのであって、それを発表して有名になろうとは思っていないのだった。物質生産を最大限に拡大しようとしていた産業革命の真っ最中のイギリスで貪りの心の無い彼の気持ちを理解する人は少なかった。キャベンディッシュの例を引くまでもなく「人生には金や名誉より大切な物がある」と繰り返し言われてきた。しかしそれを行うのは少数の変人か貴族に限定され、現実問題として食糧に困り、物質を生産しなければ労働は貴重であり、子孫は殖えなければならなかった。
第三は近代科学が発祥し、現在の社会と人生に対する基本的な骨組みが出来た時代の思想は今から見ると部分的で不完全なものだった。その当時、人類が生産する量の絶対値は不足していたので、労働は正しく神聖なものとされ、労働に励んで生産量を上げたり、工夫をして効率的な生産をする手段を案出するのは間違いであるとは考えもしなかった。ヨーロッパの思想は人間を意味のあるものとして存在させるために三種類の目標を設定している。1つは人類世界の原理を明らかにし、そのために活動すること、2つ目は民族や国家の原理を明らかにし、そのために活動すること、そして最後に家族や自分と言うものを明白にしてその繁栄のために努力することである。この3つの目標はヨーロッパ思想において論理的系統的に組み立てられてきたように見えるが、実際には頻繁に混同された。キエルケゴールの実存主義もマルクスの弁証法的唯物論も、ベンサムの功利主義もカントの正義論も前提の違う現代の人間の行動に混合と錯誤の入る論理では解決できない。現代の社会を澱ませているものはまさにヨーロッパ流論理主義を間違った前提で使用していることにあり、現代の工学倫理が立てられない理由もそこにある。「成長の限界5)」は単に経済学や資源学の問題ではなく、ヨーロッパ主導のルネッサンスがその役割を終わったことを示している。
第四にフランス革命は「自由、平等、博愛」という3つの原則を立てたと言われるが、そのフランスにおいて女性に選挙権が与えられたのは1946年の事であり、それまで女性は人間とは見なされていなかった。また「人権」という用語が使用されたのは1945年のポツダム宣言が最初であり、それまで白人男性以外の世界の人には人権は認められていなかった。ヒトがサルから分かれてから450万年、ネアンデルタール人が埋葬の習慣をもってからおよそ15万年、国家と都市が出来てから1万年であり、その時間的スパンから見るとおよそ現代の我々が当然のこととして受け入れている価値観が総合的に定まってから僅か50年である。
さて以上の準備をして21世紀の工学は「新しいお目出度さ」を立ててからその方向性を考えなければならない。新しいお目出度さは、「面白く、興奮と感激の中で、充実して疲れる人生」に他ならない。そのためにはお節料理をまず変更して、「豆」と「数の子」の代わりに「ウニ(興味)、サケ(興奮)、クリ(充実)、スルメ(疲労)」を揃えなければならない。それをじっと見つめ、味わい、繰り返し、新しい価値観に思いを馳せる。
21世紀の工学は自ずから明らかである。これまでの科学的発見と工学的考案の果実を活かし、遺伝子工学と情報工学を駆使して、「ウニ、サケ、クリ、スルメ」の実現に向かって進むことである。そうすると、単純に寿命を長くしたり、痛い思いをして臓器を入れ替える研究や、パソコンで仮想現実を増加させたり、青白い人間を作る研究は自然に意味を失って行く。
我々の現在の矛盾と閉塞感は、ヨーロッパ近世に誕生して成長した思想、文化、社会、科学などをすでにそれが成就して別の骨組みになっている社会に無理矢理当てはめようとする作業から来ていることが明らかとなった。日本人は生来、厳しい実存主義者であり「あるものはある」「すでにかくあるものを、そうではないとしても意味がない」という信念を持っている。論理性において劣るこの様な厳しい実存主義はこれまでの論理が崩れた社会にあっては論理性のある社会よりも強いと考えられる。
4 おわりに
19世紀の最初までは科学者は善良で正直な人種と見られていた。下の図はココアの品質保証の広告に使われた絵であるが、この宣伝ではココアの品質を科学者が検査しているところを描いている。科学者は少し変人ではあるが、社会的には少なくとも無害な人種であり、たとえばココアの品質を調べてもらったら、「悪いものは悪い、良いものは良い」と言う人たちである、と思われていた。
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その意味で現代の工学に関係する人に、今もっとも求められるのは科学者としてのモラルである。我々は普遍的な法則に忠誠を誓い、専門家として長期間鍛錬し、そして不特定多数に対して貢献する存在である。たとえ学問それ自体が産業となり、我々がその汚濁の中に浸かろうとも社会に変化がある毎にその主張が180度変わるような集団になってはいけない。人間がその存在を祝福されるのは、人間こそが「正しく」生きることが出来るからであろう。「正しく」というのは欧米的な論理性のある正しさよりも日本的で総合的で実在的な正しさである。それがすでに論理性を越えた工学の人類にとっての存在価値であろう。
名古屋大学 武田邦彦
参考文献
1) 日本学術会議講演集、「資源エネルギーと地球環境に関する展望」(平成4年)、「地球環境問題」(平成2年)、「人間は地球とともに生きられるか」(平成2年)、および「地球環境の危機と21世紀の私たち」(平成9年)、いずれも日本学術協力財団発行
2) 医学博士小笠原健彦先生より私信
3) 資源素材学会誌、「リサイクル大特集号」(1997年1月号)に多くの知見が集約されている。分離については、七沢 淳, 武田邦彦「リサイクルにおける分離の概念と理論」 p.1046
4) 武田邦彦、工学教育、Vol.45、No.6 pp.2-5 (1997)
5) 大林信治、森田敏照、“科学思想の系譜学”、ミネルヴァ書店 (1996)
6) C.Darwin、 “On the Origin of Species”、 John Murray (1859) London (この歴史的原著は、1977年、Yushodo reprint editionとして出版されている)
7) この種の考え方の最初の著作は、R.Dawkins(ドーキンス)”利己的な遺伝子”(たとえば、紀ノ国屋書店、(1996) 日高敏隆ら訳がある)であろう。
8) 大沼正則、“科学史を考える”、大月書房 (1993)