目の不自由なウシ

 

 私がまだ少年だった頃、近くに「ニシジマ」という名前のお肉屋さんがあった。少年の常として私も肉が大好きで、今思えば両親は貧しい財布をはたいて、よくニシジマの肉を私に食べさせてくれたものだった。

 その頃はまだ戦争が終わって間もない時でもあったし、家の近くには爆撃を受けてすっかり廃墟となった家が並んでいた。教員の父はそれほど世間的な力があったわけではない。家族は進駐軍から配給される食糧で食いつないでいるような状態だった。

 それから時が移り私も長じて日本も豊かになり、ニシジマの肉だけが特別なものではなくなった。今では私のような庶民でも「しゃぶしゃぶ」「霜降り肉」などという超高級な肉を口にすることができるようになった。

 でも、ふと不思議に思うことがある。昔は高級品だった牛肉、それも霜降り肉をなんとなく安く食べることができる。焼肉屋のサービスデーなら学生を連れて行くこともできる。どうしてこんな豊かになったのだろうか?と不思議に思っていた。

 ウシの肉でも霜降りを採れるところはそれほど多くない。肩ロースの部位からその周辺に限られる。それが何であんなに安く食べられるのだろうか?そう思っていたらある時に「ビタミンAを与えない飼育法」という記事にぶつかった。

 肉牛を飼育する時に、運動をさせ健康に育てると肉が硬くなり、肉の中に脂肪が入りにくくなる。もともと霜降りというのは筋肉の中に細い脂肪が巻き付いたようなものだから異常といえば異常だ。そんな霜降り肉をたくさん取るにはウシを健康にさせてはいけない。

 一番、「良い」飼育法は肉牛を牛舎に閉じこめて運動をさせず、ビタミンAを与えないことである。すると、目が不自由でむくんだウシになる。つまり「浮腫牛」を作るのである。そうすると日本人が特に喜ぶ霜降り肉ができるという訳である。

 人間も動物の一種だから他の命を頂かなければ生きていけない。特に動物の命を頂くのは心傷むが植物でもそれは同じかも知れない。いずれにしても因果な人生で、どんなに「命の尊さ」などと言っても一日たりとも殺生をしなければ生きていけない。

 でも、お釈迦様の教えにもあるように「中庸」というものがある。極端はいけない。どうせ、この世は矛盾だらけである。命の尊さを説く偉人でも生きている限りは命を頂いているはずだ。でも「頂き方」がある、とお釈迦様にお叱りを受けるだろう。

 ウシに肉を提供して頂くのは仕方がない。でも、せめてもの罪滅ぼしに、素晴らしい牧場を用意して楽しい人生を送ってもらいたい。いずれ屠殺(とさつ)しなければならないにしても、それまでの人生は精一杯、楽しくやってもらいたい。そしてその時が来たら、それこそ人間の最高の技術を駆使して、きっと君が気がつかないうちに何の苦痛も無くあの世に送ろう・・・だから許して下さい。

 ウシを狭い場所に閉じこめ、運動不足にしてビタミンAを与えず、目を不自由にすれば美味しい肉を食べられるとは!ウシは光の無い世界で動くこともできずに生き、そして死ぬ。これは悪魔の仕業としか思えない。

 狂牛病というウシの病気がある。この病気が人間に感染するのではないかと心配されている。ウシの脳、脊髄、目を食べなければ大丈夫のようだが、はっきりはしない。そして、この病気も人間が悲惨な飼育をしたためにこの世に出てきた病気である。

 なぜ、狂牛病が発生したかはすでに私の著書(「何を食べたら・・・」)に書いたけれど、ともかく「効率的にウシを育てたい」というお金に関わることで「若いウシに自分の親を食べさせる」という行為をする。これも悪魔の仕業だろう。

 ウシの脳はスカスカになり、よろよろと歩き、そして死ぬ。その最後は、目を失ったウシより悲惨だ。人に尽くすために生きてきたウシなのにまるで疫病神のように嫌われて焼却される。命の無い「物」以下の取り扱いである。狂牛病にかかったウシの慰霊祭など聞いたこともない。

 狂牛病が人間に感染するか?アメリカ産のウシは大丈夫か?と心配する。確かに、私たちの関心は、人の健康、家族の命、そして自分だ。ウシはどうでも良い。狂牛病の問題は人間の問題であってウシではない。ウシが苦しんで死のうがそれは問題ではない・・・と世間では言う。

 私はウシが可愛そうだ。今から15年ほど前、イギリスでは数十万頭のウシが狂牛病にかかって死んだ。すべては人間の仕業である。人間は137名死んだ。その比率は人間一人にウシ2000頭である。人間とウシで命にそれほどの差があるのだろうか?

 人間はそれほどまでに偉いのだろうか?

 ウシは黙っている。黙っているけれど鋭く観察し、深く考えている。彼らは人間がすることを受け入れることが運命であることを知っているし覚悟も出来ている。だから、どんなに酷い仕打ちを受けても一言も言わない。彼らは哲人なのである。

 お金、命、誠、裏切り、尊敬・・・あらゆるキーワードが混沌として次の時代に向かおうとしている。こんなに豊かで悲しい時代に私たちは人生を過ごしていかなければならない・・・

おわり